ひとりドラムの軌跡

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爆風スランプトリビュートアルバム WeLoveBakufuSlump

2009年7月31日

江川ほーじん考

先月のほーじんのライブは大阪で仕事をしていたので見に行けなかったが、
今回は予定をちゃんと空けて、
爆風銃(バップガン)のギタリスト、かんじさんと一緒に見に行った。

かんじさんも俺も、ほーじんと一緒にステージに立ったことはあるが、
ほーじんのプレイを客席から見たことは一度もない。

「ほーじんってあんなに楽しそうに弾いてたんだなぁ・・・」

かんじさんが開口一番ぼそっと漏らす。
何を隠そう俺も最初に思ったことはそれだった。

当時の爆風銃(バップガン)
そして「笑えるパンクバンド」だった初期の爆風スランプ、
どちらも自分にとっては「怒り」のイメージである。
やり場のない怒りのパワーを音楽に転嫁して爆発させる・・・
それが「ロック」というものなのか、はたまた・・・
後で思い起こすとそれが自分たちの「青春」と言うものだったか・・・
それも今となってはもうよくわからない。

兎にも角にも江川ほーじんはいつも怒ってた。
世の中の不条理を全てベースにぶつけているようなところがあった。
俺も怒っていた。
何に怒っていたかはもう今でははっきりとは思い出せないが、
それはその後、中国に渡って何かがふっ切れるまでずーっと続いた。

ほーじんの人生に何があったのかは知らないが、
何かそのようなふっ切れることがあって今に至ったのか、
もしくは最初から実はふっ切れてたのかは今となっては確かめる術はない。
ただあの笑顔から感じることはひとつだけ、
「ヤツはベースを弾いてるのが楽しい」
ということである。

中国でいろんなミュージシャンと会う。
顔に「金」と書いて荒稼ぎしている売れっ子ミュージシャンや、
アンダーグランドのライブハウスで
「かったりーなー」
とばかりやる気のないドラムを叩く若いドラマー・・・
そんな連中は言わばまだ音楽の「入り口」にまでたどり着いてないと言えるが、
ほーじんのこのプレイは既に「出口が見えている」域まで来ていると感じた。

弦を思いっきり上下に叩き付ける独特のスラップ奏法。
ピックアップから見て弦は左右に揺れるのではなく遠近に揺れるので、
その結果必然的にアタックばかりで音がうまく拾えない。
それを解決する方法として当時のほーじんが編み出したのが、
4000ワットのベースアンプをフルテンにして、
スピーカーの方で自然にリミッターがかかるという方式である。

だからヤツはいつもそのPAよりでかいベースアンプを必ず持ち込んでいた。
もちろんこのX.Y.Z.→Aの店にそんなシステムを持ち込まれた日にゃぁ、
店はまず間違いなくその日で営業停止である。

ただでさえ一度、下の店から苦情が来たことがある。
「三井ぱんと大村はん」のライブの時である。
音量が小さいはずのギターとボーカルだけのアコースティックライブでどうして苦情が来たのか?
それは三井ぱんが「おっぱいがいっぱい」という曲(今や壮大な組曲となっている)の中で、
「ぽこちんぽこちんぽこちんぽこちん」
と叫びながらコダックダンスを踊ったからである。

何故にラグタイムブルースデュオでコザックダンスを踊らねばならないのかは意味不明だが、
そのドンドンという振動が床を通して下の店に響き、
ちょうど下で貸し切りの宴会をしていたビルのオーナーの逆鱗に触れたのである。

まあ「ぽこちんぽこちんぽこちんぽこちん」で店が潰されたら泣くに泣けないが、
先月のほーじんライブではある程度の覚悟はしておいた。
「ほなちっこいアンプ持ち込むわ」
と言いながらそれを爆音で鳴らすほーじん。
手伝いに来た仮谷くんは冷や汗ものだったと言う。
何せベースアンプだけではなく部屋じゅうがスピーカーとなって揺れ、
棚に置いてある焼酎がカタカタと鳴っていたと言うのだから。

それでも彼は「大人になった」と言えよう。
4000ワットのシステムの代わりに
「ちっこいアンプ」とエフェクターによって音を作るようになったのだから。

しかしその「プレイ」は決して「大人」になってはいなかった。
「一歩下がって人をサポート」なんてことは一切しない。
人とぶつかろうが喧嘩しようがおかまいなし。
ヤツのプレイを聞いているとヤクザ界で使われるこんな言葉を思い出す。

「人間、出て生きるか引いて生きるか」

出て生きたければ人とぶつかるしかない。
だから爆風初期のリズムセクションの音というものはいつも「喧嘩」していた。
そしてそれが初期の大きな魅力だったのであろう。

それはヤツの「生き様」そのものだった。
だから俺はバンドのためにヤツを「抱いて沈む」しかなかった。
今考えればそれも俺の「生き様」だったのであろう。

ヤツがバンドを脱退し、
その後包み込むような音と、まさにそのような人間性の和佐田が入って来た時、
俺は解放され、そしてほーじんと同じように・・・暴れた・・・

俺とほーじんは実は同じコインの表と裏だったのだ。

10年ぶりに再会した時、ほーじんは俺にこう言った。
「末吉は器用になり切れない器用貧乏なんやな」

そう、器用だったからこそヤツよりは人とぶつからずにすんだし、
だからこそ土壇場の部分でやっぱり・・・ヤツにはかなわない・・・

一度別れた枝葉は、またねじれて絡み合うことはあるが、
決してまたひとつの枝となることはない。
でもとどのつまりは同じような人間なのである。
ほっとけば多かれ少なかれ同じような人生を送るのも言わば当たり前のことなのかも知れない。

かくしてほーじんは今もベースを弾いていて、
俺も今でもドラムを叩いている。
この世知辛い世の中で、
別れてもお互い今もそれを続けているということだけで「奇跡」と言ってもいいことであろう。

MCで「もう老眼で譜面が見えへんねん。
譜面台に置いたら近過ぎて見えんし、
そやから床に置いとるんやけど今度は遠過ぎて見えへんねん」
と言ってたので、
最後の曲でステージ前まで出て行って床に散らばっている譜面を手で持ってやったら、
客の方がびっくりして一斉に写メを撮りだした。

おいおい・・・俺ら別に・・・そんなに仲悪くないぞ・・・

お互いもう50である。
いろいろあったけど別に憎み合う理由なんてありはしない。
「一緒にセッションでもやろか?」
「おう!何でも呼んでくれや!何でもやるで!!」

生きてれば会うこともあるし、
お互い音楽やってればまた一緒にやることもある。
ただそれだけのことなのである。

「恭司さん、久しぶりにセッションしませんか。ベースはほーじんで・・・」
山本恭司を仲人として、8月14日、ほーじんと20年ぶりに同じステージに立つ。

この日の爆音で店が閉店に追い込まれても・・・
ま、「ぽこちんぽこちんぽこちんぽこちん」で潰されるよりはいいか・・・

Posted by ファンキー末吉 at:09:00 | 固定リンク

2009年7月21日

7月18日プロとJamろうジャムセッション

青島から全日空の直行便に乗って日本に帰って来た。
ソウル経由の大韓航空だと3万円ちょいと格安だったのじゃが仕方がない。
今日のJamセッションに命を懸けている嫁のために何とか間に合う便で帰って来たということなのじゃ。

しかしそれでも成田に着いたら夕方の5時をまわっている。
駐車場に乗り捨てた車をピックアップして高速をぶっ飛ばす。

なにせ成田から八王子と言うと東京を挟んで真反対の方向である。
渋滞の首都高を通過してやっと着いたのが夜の8時。
店の中は超満員、立ち見が出ている。
8歳の子供がドラムを叩き、マッド大内が歌を歌っていた。

0818JamSession.JPG

凄いなぁ・・・8歳でツーバス踏みまくってる彼も凄いが、
マッドくん・・・ドラマーのくせに歌まで歌えるんかぁ・・・

「歌なんて歌っちゃえばそれでいいんですよ」
と不敵な発言を残しつつ、ドラムに司会に大忙し。
考えてみればこの企画、
最初に一番適材を引き当ててしまったのかも知れない。
彼ほどこのような企画にぴったしの人間はいない。

ドラマーによってはこういうことが嫌いな人もいる。
今は亡き樋口っあんだったらまずやらないじゃろう。
人それぞれなのである。

ワシはどちらかと言うとこういうことが好きである。
マッドくんも同じ。

腕に自身のあるアマチュアミュージシャンが、
彼の胸を借りて腕を披露する。

腕に自身のないうちの嫁も一生の思い出のために彼と共演する。
腕に自身とかいうレベルでもなんでもない「えだちん」という人は、
「ただ面白いから」という理由で「たいやきやいた」をエントリー。

なんとたいやきの被り物までかぶって参加!!

0818Taiyaki.jpg

ベースは奇跡的に参加者がいたが、
ギタリストは予想通り参加者がいなかったのでワシが弾く。
何とこの曲を作曲した時に弾いた以来一度も弾いてない。
参加者の中で最低レベルの演奏だったことは言うまでもない。

口上もちゃんと叫んで始まった。

アクションはオジンだぁ!!!ドバラガッシャン(マッドくんが叩く)
ラウドネスは天狗だぁ!!!ドバラガッシャン(マッドくんが叩く)
アンセムは汚らしい!!!ドバラガッシャン(マッドくんが叩く)
そして44マグナムはバカだぁ!!!ドバラガッシャン(マッドくんが叩く)
史上最悪のヘビーメタルナンバー!!!た!い!や!き!や!い!た!!!

マッドくん、いい人である。
来月から毎月お願いしたい!!

Posted by ファンキー末吉 at:06:55 | 固定リンク

Pair全中国ツアー山東省青島2日目

8人部屋というのは初めて体験したが、
住人が全て仲間なのでそんなに違和感がない。

まあ強いて言えば女性ボーカルがいるので少々気を使うが、
まあ気を使うのはむしろこちらではなく本人なのだから気にしない。

中国人は寝る時は服を着ないという人が多い。
だからいつもこのようなデブの寝乱れ姿と遭遇することとなるが、

PairQingDaoDebu.JPG

果たしてそれは女性も同じであるらしく、
前回の鄭州のツアーでは、
デブが起きたら隣でボーカルの安安(アンアン)が同様の寝乱れ姿であったらしい。

女性とバンドをやるもんではない。
女性も我々を男と思っとらんし、我々も誰も彼女を女と思っとらん・・・

ホテルがビーチ沿いだったので海に出て見た。

PairQingDaoBeach.JPG

さすがは中国で一番有名な海水浴場である。
人が・・・多過ぎ・・・

泳ぐのはあきらめてホテルに帰った。

PairQingDaoLobby.JPG

ステージはこのホテルのロビーにあるステージである。
そう言えば梁棟(Liang Dong)から、
「この環境はファンキー先生がドラムを叩くにはちとひどいので別のライブハウスを当たります」
とメールが来たので、
「アホか!!これは奴らの事務所がブッキングした仕事じゃ!!
勝手にそんなことしてたら業務妨害で訴えられるぞ!!」
と返信した記憶がある。

ワシにとっては「仕事」は「仕事」、
別にどこでドラムを叩こうが、どんなドラムセットを与えられようが、
その中でベストを尽くしていい演奏をするだけのことさ・・・

などと言ってたら運ばれて来たドラムセットは相当なもんだった。

ま、いい。
目の前にドラムセットがあれば叩くだけのことである。

PairQingDaoDruming.JPG

いやー・・・それにしてもこの人の顔・・・おもろいのう・・・

ワシなんかXYZのビデオを音を消して流しながら酒飲んでた時、
ドラムソロになった瞬間に
「こいつ・・・笑かしようのう・・・」
と思ってしまったよ。

二井原がよくブサイク、ブサイクと言うが、
いやこれはそう言ったレベルのものではない!!
「笑かしよんのう・・・」
と言うレベルのものでもない。

なんかもう・・・別もんである。
ある種・・・神の域に行っとんのう・・・別の意味で・・・

まあ自分の顔に感心してても仕方ない。
こんな顔のドラムに(こんな顔やからか?)人々は感動し、
割れんばかりの拍手の中、ライブは終わった。

この日は別の場所で謝天笑(Xie TianXiao)と、
更には私がこうして中国にいるきっかけとなった張楚(Zhang Chu)も青島に来ていると言う。
20年前、初めて中国に来た私をロックパーティーに連れて行ってくれたから今があるのである。

合流して一緒に飲む。
しかし地元の若い衆やBeiBei達は徐々に引いてゆく。
周りがあまりに偉い人ばかりなので気後れしてゆくのだ。

北京から来たレコード会社の社長までが
「偉大なる私たちの先輩と乾杯させて下さい」
と来る。

「ファンキーさん・・・あんたは特別(スペシャル)なんだ。
北京の全ての音楽関係者があんたのことを尊敬している・・・」

気後れすることはないぞ!!
奴らだって最初に出会った頃はド貧乏だった。
お前らが明日、彼らのように大スターにならないと誰が断言出来る?!!

お前ら、頑張れよ!!
頑張って・・・せめて渡航費に足りるぐらいギャラちょうだい・・・

Posted by ファンキー末吉 at:06:00 | 固定リンク

2009年7月18日

Pair全中国ツアー山東省青島初日

青島と言えば青島ビールである。
ここの青島生ビールはここでしか飲めない。
前回来た時もしこたま飲ませて頂いた。
数々の地ビールを飲んで来たワシじゃが、
いまだにこれを超える地ビールに出会ってない。

今回も北京経由の飛行機をとって、
ついでに北京で仕事をと思ったのじゃが、
旅行会社の言うことにゃぁ
直接青島に行くより北京経由の方が高いらしい。
地図を見て納得。
日本からだと青島の方が北京より近いのである。

ディスカウントチケットは2泊3日からじゃないと発行出来ないというので、
ライブの前日に入ってライブの次の日に帰るという行程となる。

そうなると着いた日に何もしないのはもったいない。
地元の若い衆、梁棟(Liang Dong)にメールする。
北京でさんざんシゴいたドラマーである。

「せっかく前の日に着くんだからさぁ。何かドラム叩けるとこない?」

この一本のメールが現地では大変なことになる。
空港から連れて行かれたのは地元のラジオ局。

PairQingDaoSession.JPG

ラジオ局を巻き込んでの大掛かりな「交流会」になってしまっている。
ワシはどっかのJazzクラブででもちょこっとセッション出来ればそれでよかったのよ・・・

おまけにそれが終わった後には夜7時からのラジオの生放送まで入っている。
ワシはドラムさえ叩ければそれでよかったのよ・・・

PairQingDaoRadio.JPG

ドラムを叩く前は酒を飲まないワシじゃが、
ラジオ出演なら別に酔っぱらっててもいいじゃろうと、
結局5時頃から青島生ビールを煽ることとなる。

PairQingDaoBeer.JPG

これがまた旨い!!!

そしてまた料理が旨い!!

PairQingDaoFood.JPG

手前は浅蜊炒め、右は海鮮スープ。
そして絶品だったのがその向こうにある白菜炒め。
なんとこの白菜炒めには牡蠣が入っていて、
白菜の味がもう全然違うのよ!!!

おかげでビールは進むわ、
ラジオ番組は酔っぱらって喋りまくるわ、
結局生放送で「中国ロックの歴史」を延々喋りまくってしまった。

PairQingDaoBeerStreet.JPG

そのまま青島ビール街に直行!!

ここは世界的に有名な青島ビール工場の裏にあるレストラン街で、
8月の中旬には「青島ビールフェスティバル」というイベントがあり、
生バンドが入ったりそれはそれは賑やかである。
毎年「箱バンド」のお誘いが来るがスケジュールの関係で行けたことがない。

是非一度参加してみたいもんじゃ・・・

PairQingDaoSeaFood.JPG

青島のレストランはだいたいこのスタイル。
所狭しと並ぶ海鮮の中から自分の好きなものを選んで、
それを自分の好きなスタイルで料理してもらう。

満腹になった頃、PAエンジニアの吉田くんがやって来た。

PairQIngDaoYoshida.JPG

彼は謝天笑(Xie Tianxiao)というロックシンガーのツアーでやって来た。

なんと蘭洲からクーラーの効かない2等寝台で36時間かけて・・・

凄い日本人もいたもんじゃ・・・
ワシなんかまだまだ甘い甘い・・・

と思いながらホテルに帰るとそこは何と8人部屋のユースホステルであった。

PairQingDaoHotel.JPG

続く・・・

Posted by ファンキー末吉 at:14:02 | 固定リンク

2009年7月16日

Jazzセッションは楽し(面白し)

灼熱の武漢から帰って来た。

9日には2時間かけて車で八王子から成田に行き、
3時間半かけて飛行機で北京に行き、
10日には2時間かけて飛行機で武漢に行き、
バスで2時間かけてライブハウスに入り、
11日はタクシーで2時間かけて武漢の空港に行き、
また2時間かけて北京に帰り、
12日には北京からまた3時間かけて成田に行き、
車で向かったのは八王子ではなく江古田。

先日の素敵な文章を書いた演出家が舞台をやると言うので直で見に行って来たのだ。

舞台演劇初心者のワシじゃが、
これが非常に感激した。

小さな劇場で生声で、
役者達は自分のエネルギーを全て台詞に凝縮して観客にぶつけて来る。

ある意味、ロックやね。

「ひみつのアッコちゃん」という劇じゃったが、
そのテーマソングが頭の中から離れない。
翌々日のJazzセッションで是非これを演りたいと譜面にする。
「あいつの前では女の子〜」という例の3拍子の曲である。

Jazzプレイヤーは優秀なので一目譜面を見ただけで完璧に演奏出来るので楽である。
やりたいことがすぐ実現出来るのでこんなJazzセッションは楽しい。

前回なんぞいきなり落語の人が遊びに来た。

RakugoJazz.jpg

前回の写真より、ピアノ進藤陽悟、ベース大西慎吾に加えて落語、
ラウドネスのエンジニアをやっている崎本くんに紹介された「柳家わさび」である。

「ピアノソロはみんながバッキングしてくれるのに
ドラムソロなんて誰もバッキングしてくれないんだから、
お前はこの曲で落語ソロやれ!!」
ってなもんで曲の途中にいきなり落語ソロ。

二つ目という位置がどのようなものかはワシには全然わからんが、
「いきなり無茶振りで御座います」
とうまくマクラを置いての一席は大したもの。
ドラムソロのフィニッシュのままのポーズで止まったまま大笑い。

そして昔もよくやっていたJazzの名曲の間に小咄を挟むという「落語Jazz」
これをわさびさんが隠し録り(でもないか)していて、
是非UPしてくれと言うのでXYZのレコーディングの合間に崎本くんにファイルにしてもらった。


http://idisk.mac.com/funkystudio2000-Public/RakugoJazz.mp3

笑える・・・

また是非一緒にやろうと誘っているが、なかなかスケジュールが合わない。
8月は19日なら来れるというので、
今回はひとりで一席やってもらうことにした。

ライブバーで落語・・・ええんやないの?!!

二井原はお笑いの人をブッキングしたらどうじゃと言うが、
ワシとしては何か抵抗があるのよね。

例えばミュージシャンと言うのは、
まあいつも出てもらってる人を例にとると、
例え超有名ではなくても必ず人は感激する演奏をする超ド級の人がいる。
ところがお笑いの人って有名じゃない人は笑えない・・・(偏見か?)・・・

誰かそんな超ド級の無名芸人さんを知ってたら是非紹介してもらいたいが、
落語というのは「芸がすべる」ということはまずない。
何百年も受け継がれて来た「芸」を継承しているのだからそうじゃろう。

まあ言うならば優秀なJazzミュージシャンと同じである。
その古典(Jazzで言うとスタンダード)を完璧に再現出来るだけで基本的には拍手ものだし、
そこに即興や偶然性が加わって「神が降りて来る」と人間国宝ものになる。

芸人さんが
「ミュージシャンはええわのう・・・毎回同じ曲やっても客怒らんもん!
芸人はその点辛いでぇ。同じネタやったら絶対ウケへんもん」
と言ってたがその通り!!
ふたつのものはまるで別のものなのである。

言うならば落語はビバップ、お笑いはフリージャズに近いと言えよう。

わさびさんの落語、楽しみである。
チャンスがあれば今度は落語に即興でドラムを加えてみたいもんじゃ・・・

そんな思いを抱きながら今から青島に飛ぶ・・・

Posted by ファンキー末吉 at:04:24 | 固定リンク

2009年7月11日

Pair全中国ツアー湖北省武漢

先月のツアーは運良く(運悪く)全部ドタキャンになってしまったが、
今月のツアーは運良く(運悪く)ドタキャンにならなかったようである。

湖北省、内陸部長江のほとりにある武漢という街、
日本から直行便は出てないので北京経由の便にした。
他のメンバーは列車で一晩かけて既に向かっている。
私はちょいと深酒してしまい、朝6時に飛び起きて空港に向かった。
これでは酔いつぶれてそのまま寝台車で寝れる列車の旅の方がまだ楽である。

飛行機に揺られること2時間。
全くもって中国は広すぎる。
これでは九州ぐらいまでは帰れるではないか・・・

初めて降り立った武漢の空港。
空港施設から一歩外に踏み出すと・・・暑い!!!!
「中国で一番暑い街」だという噂を聞いたことがあるが、
湿った空気が肌にへばりついてくるように暑い!!

日本で一番暑い街は最南端の沖縄ではなく、
むしろ内陸部の前橋や熊谷であるように、
この街が「中国で一番暑い」というのはあながち嘘ではなさそうである。

空港から市内からはえらく遠いという話である。
強いて言えば成田のようなもんか・・・
タクシー乗り場に行ってみると、
今日に限って何故かタクシーは空港出入り禁止らしい。

何があったのか知らないが、仕方ないのでバスで行くしかない。
このちょっとした移動だけで汗が噴き出して来る。

PairWuHanMap.JPG

ライブハウスの場所を調べてみると、
どうもバスの終点近くであるらしい。
市内からはちょっと離れている。
強いて言えば八王子のようなものか・・・

バスに揺られること2時間。
飛行機だと北京まで帰れている。
やっと終点まで着いて、タクシーでライブハウスへ。
このタクシー待ちの時間だけでもう身体じゅうの皮膚がネバネバしている。

ライブハウスに着いた。

PairWuHanVox.JPG


「Voice Of Freedom」なんて名前を付けた時点で
昔だったら即、政府からお取り潰しになってたところである。
中国も少しは平和になったということである。

部屋の中に入っても暑い・・・
店を開けたばかりなのでクーラーがまだ効いてないのか、
もしくはクーラーが効かないぐらい暑いのか、
とにかく「外よりはちょっとまし」というぐらいの状態なので、
ステージに転がっていた大型扇風機をドラム専用に使わせてもらう。

よくドラムの備品として扇風機を持ち歩いているドラマーがいるが、
ワシは自慢じゃないがそんなことをしたことがない。
「ステージが暑いのは当たり前!!」
とばかり根性で乗り切るのじゃが、
ここの暑さは「種類」が違う。
ステージの暑さが「サウナ」だとすると、
ここの暑さは「ミストサウナ」。
辛いもの好きにワサビを食べさせて悲鳴を上げさせるようなものである。
(喩えがよくわからんか?・・・)

ステージが始まった。

PairWuHanStage.JPG

「80后」という80年代に生まれた同世代の若者に対して歌う歌では、
お決まりの「座って歌う」コーナーとなるのじゃが、
相変わらず座ったら遠慮ない撮影大会である。

一台しかない扇風機は悪いけどドラム専用にさせてもらったので、
フロントのみんなは汗だくである。
汗が吹き出して来て・・・というより、
空気中の全ての水分が皮膚の上で玉になるという感じで、
流れ出すというよりも皮膚から流れ落ちずにずーっと留まっている感じである。

ステージが終わったらさっさとホテルでシャワーを浴びる。
一日に何度もシャワーを浴びなければやっていけない。

それ以前に外に出るのがイヤである。
ずーっとクーラーの効いてるところでいたい!!

香港は外は暑いのに部屋の中が寒くてイヤになるが、
今となってはあれは正しい!!
部屋の中までむしむししてたら死んでしまう!!

というわけで今回はライブハウスとホテル以外、
それ以前に屋外には出てないので、
それも何だということでホテルの前の夜市でビールを飲むことにした。

でも夜中というのにやっぱり暑い・・・

香港の夜市でもこんなに暑くなかったと思う。
ふと見るとデブのキーボードのZhangZhangは汗だくである。

PairWuHanDebu.JPG

基本的にデブは暑さに弱い。
そして自身の身体は非常に熱い。

誰かが言った。
「おいおい・・・見てみろよ、汗かいてんの俺たちだけだぞ・・・」

見てみると地元の人達は涼しげに座っている。
暑いのはデブがいるという理由だけではない。

地元の人はこの暑さに慣れてるのである!!

その証拠にどの店もホテルもそんなにクーラーをがんがんに効かせない。
翌日のタクシーなんぞ
「窓閉めてクーラーかけてくれぇ!!」
と頼むと、
「こんなに涼しい朝なのにクーラーなんかいらねーだろう」
と来る。

お前らは暑くなくてもワシらは暑いんじゃぁ!!!

やっとの思いで灼熱の武漢を後にする。
北京の夏も40度を超えるが、
空気が乾いているだけ武漢よりましである。

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2009年7月 7日

プロとJamろうジャムセッション

が出来てからというもの、心なしか嫁の機嫌がよい。
先月もベビーシッターまで雇って「三井ぱんと大村はん」を見に行ってた。

7月はどんなセッションがあるのかスケジュールがUPされたら目を皿のようにしてチェックしている。
嫁の好きな爆音系はなかなかではブッキング出来ないので、
まあ強いて言えば24日の江川ほーじんセッションぐらいではないか
(同じ爆音でもジャンルが全然違うが)・・・

「パパ!!何言うてんねん!!18日があるやん!!」

18日?・・・何やろ?・・・
・・・自分でブッキングしといて忘れている・・・

調べてみると「プロとJamろうジャムセッション」
そうそう、地元のみんなが「是非Jamセッションを」と言うのでブッキングしたんじゃった。

ところがワシは実はJamセッションは嫌いである。
Jazzのセッションは決まったフォームがあり、
まあだらだらと延々ソロをやらない限り必ず終わりがある。
早い話、「曲」があるから好きなのじゃが、
ところがロックとかブルースとかのセッションとなると、
1コードやブルースコードで延々ソロをやられたりするとたまらない。
いくらドラムを叩くのが好きなワシでも
「もうええじゃろ」
と言いたくなる。

つまり「終わり」がないだけでなく「曲」がないのである。
こんなのを延々聞かされる客は哀れとしか言いようがない。
もちろんワシは金を出してまでこんなのを聞きに行くことはまずない。

ところが昔参加したJamセッションで非常に楽しかったのがあった。
目黒ライブステイション主催で、
この時は課題曲を決めてそれにプロもアマもごっちゃになって参加した。
ユニコーンのテッシーや、BowWowの満園兄弟なんかもいたなあ・・・。

ワシはその時メタリカの曲を選んで、
2バスがあまりに速くて辛くて後悔した。
まさか数年後にXYZみたいなバンドを組んでずーっと苦労し続けるとは夢にも思わずに・・・

そんなJamセッションだと楽しかろうということで、
誰かいいセッションリーダーはいないかと探したところ、
シェイカーの甲斐くんや工藤ちゃんはレコーディングということでスケジュールが合わず、
マッド大内がスケジュールが合ったのでこの日にブッキングしていたのじゃ。

「パパ!マッドさんどんなんやるん?!!」
そうかぁ・・・マッド大内と言えばアンセムのオリジナルメンバーではないか・・・
嫁は筋金入りのアンセムのファンなのである。

マッド大内が選んだ課題曲リストを見せる。

BURN(DEEP PURPLE)
I SURRENDER(RAINBOW)
SPOT LIGHT KID(RAINBOW)
LOST IN HOLLYWOOD(RAINBOW)
INTO THE ARENA(MSG)
CRAZY TRAIN(OZZY OSBOURN)
BLACK OUT(SCORPIONS)
ANOTHER THING COMING(JUDAS PRIEST)
YOU SHOCK ME ALL NIGHT LONG(AC/DC)
LIVE WIRE(MOTLEY CRUE)

見終わって嫁が一言・・・「無理やなぁ・・・」

無理やなぁって・・・まさか・・・見に行くんとちごて参加?・・・

まあ嫁は学生時代はバンドを組んでいてギターを弾いていたと言う。
花嫁道具も「エース清水モデル」のギター。
そう、嫁は筋金入りのエース清水のファンでもあるのだ。

「さ、参加なんてそんな・・・恐れ多い・・・もう10年もギター弾いてないし・・・」
顔を赤らめて言い訳する嫁。
「何言うてんねん、Jamセッション言うたらそう言う人のためのもんや!!
見に行っても1000円、参加しても1000円。それやったら参加せな損やろ!!」

育児に追われて自分のやりたいことも全然出来ない嫁が、
こんなことでストレス発散してくれたらそれこそ家庭円満!!
家庭平和は世界平和につながり、やがて北朝鮮も核を放棄するってもんである。

「でもこの曲どれも弾いたことないし・・・」
弱気の嫁を更に説得する。
「この曲だけやのうて、やりたい曲はの参加曲リストに新たに書き込んだらええんやで。
その曲やりたい人が集まって来たら別にその曲もやれんねん」

「ほな一応ギター練習してみようかな・・・
今度北京行った時、弦やらいろいろ持って帰って来てね」
何とか重い腰を上げたようである。
世界平和はもう近い!!

しばらくしてうちに一冊の本が郵送されて来た。

JamSessionHon.JPG

嫁・・・本気やな・・・

見ればボンジョビの「You Give Love A Bad Name」に折り目がついている。
に行ってこの曲を新たにエントリーすると共に、
シャレでついでに爆風スランプの「たいやきやいた」も書き込んで来た。
前の日に青島なのでドラムの欄に「ファンキー末吉(帰国が間に合えば)」と書いて。
まあこの並びの楽曲の中でこの曲を演りたいと言う人もおるまいて・・・

そしてそのまま吉林省に飛ぶ
北京に帰り着いた時、嫁からメールが入った。
「ギターケースに入れてあったチューニングメーターとピックケース持って帰って!!」

嫁よ・・・ますます本気やな・・・

ところがピックケースは何とか見つかったものの、
チューニングメーターは探せど見つからない。
まあ帰国してから一緒に買いに行けばよいじゃろ。

帰国して、嫁を連れて京王八王子駅ビルにある島村楽器へと向かう。

「そうや、パパ、シールドも買わなあかん・・・」
シールドでも何でも買いなはれ!
「ストラップも要るでぇ・・・」
何でも買いなはれ!全ては家庭円満、世界平和のためである。

こまごまとしたものを買い込んでワシがお会計をする。
これもひいては世界平和のためである。

買った物の中にこんなものを発見・・・

JamSessionKomono.JPG

ノートやらクリップやらJamセッションに必要かぁ?・・・
まあ言わぬが花、知らぬが仏である。

帰りにロックファッションのブティックを発見!!
嫁がいそいそとステージ衣装を選んでいる。
「買いなはれ!買いなはれ!」
これも全ては世界平和のためである。

買った物の中にまたもやこんな物も発見・・・

JamSessionBag.JPG

嫁よ・・・Jamセッションに何故にバッグが?・・・

いや、言わぬが花、知らぬが仏。
これも全て世界平和のためである。

Hard Offというディスカウントショップに6000円のギターアンプもあったので買って来た。
今、自宅スタジオで嫁が爆音で練習している。
これだけやる気なのにこの曲に参加する人がいなければどうなるのじゃ?!・・・

家庭平和のためにに参加者をチェックしに行く。
なーに、参加者がいなければ地元のミュージシャンを脅して参加させればいい。
子煩悩ならぬ嫁煩悩である。

店に貼り出している参加表を見ると・・・
おう・・・ぼちぼち参加者が増えて来ているではないか・・・
嫁の曲にも参加者がいるようじゃ・・・よかったよかった・・・

ふとみると「たいやきやいた」に参加者が・・・

ベース&ボーカル・・・えだちん・・・

まさか参加者がおるとは・・・
しかもこの人・・・この曲だけに参加希望・・・
ワシ・・・青島から戻れんかったらこの人どうするんやろ・・・

誰かこの曲にドラムとギターで参加出来る人求む!!

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2009年7月 5日

黄家駒の命日

その日、6月30日はBEYONDのボーカリスト、黄家駒の18回目の命日であったが、
毎年のことながら私はすっかり忘れてしまっていた。
その日に北京で古い友人と酒を飲んでた私にそのことを思い出させてくれたのは、
古くからのBEYONDファンから送られて来たメールであった。

彼女は血液のガンと言われる白血病にかかってしまい、
18回目のその日は病院で迎えたと言う。
「いつの間にか彼より年上になってしまったのね」
と笑っていた彼女である。
どうせならもっとくしゃくしゃのおばあちゃんになってから彼と再会して欲しいものだ。

頃を同じくして嫁からメールが入った。
「仙台から何か届いとるよ」

そう言えばX.Y.Z.→Aの10周年記念10ヶ月連続ライブの6月公演の時、
出待ちしていた仙台のファンの子に
「お手紙お渡ししたんですけど受け取りました?」
と声をかけられた。
即出して帰ってそのまま中国に飛んだので、スタッフが自宅まで届けてくれたというわけだ。

中には手紙と小冊子が入っていた。
手紙を読むと、
「覚えてますか?私は山形でのライブの時に夜行バスに乗る末吉さんをお見送りに行った者です」
とある。

そうそう、その時は上海のコンサートの日取りが土壇場で動いてしまい、
山形→上海→新潟という怒濤の3日間移動をした時だった。
「仙台から末吉さんのドラムを聞きに来たんです」
と彼女は言った。
「愛のチャンピオンのドラムソロを聞いてから、末吉さんのドラム聴きたさにライブに通ってます」

とてつもなくマニアックな話である。
商業路線を爆走していた当時の爆風スランプには珍しく、
黄家駒が死んで次のコンサートからそのバラードのサビの前にドラムソロを入れるということになった。
全然商業主義ではないこんな意見がメンバーから出るのを意外に思いながら、
通常ドラマーだったら誰もが嫌がる「バラードでのドラムソロ」を披露したのは、
そのコンサートツアーの初日である千葉でのこと。
「凄いよ!末吉ぃ!ドラムが泣いてるようだよ」
今はアミューズの社長である畠中さんが私にそう言った。
そしてたまたま見に来ていた私の友人はこうも言った。

「末吉さんひとりだけ居る場所が違う」

その言葉が「予言」であったかのように、
その後、私ひとりが別の道を歩み、爆風スランプは活動を休止することとなる。

居場所を見つけるために狂ったようにJazzのセッションをやってた頃である。
ドラムを叩けるならどんなジャンルの音楽でもやった。
そんなある日、黄家駒が私のセッションを見に来てこう言った。
「凄いよ!お前のドラムはほんとに凄い!
毎月やってんのか?来月もまた見に来るから」

その言葉が彼と最後に交わした言葉となってしまった。

あれからずーっと、今もドラムを叩いている。
今もまだずーっと、いつも彼が見に来ているような気がしている。

病院の待合室で彼の死を告げられた時、
ドラマーのWingは気が遠くなって私の腕の中に倒れ込んだ。
けけけけ、と笑いながら、うわ言のようにこう言った。
「ヤツは今、とても気持ちのいい世界にいるんだって、
酒飲むよりもセックスするよりも、
もっと気持ちのいい真っ白な世界だってよ、けけけけ・・・」

Jazzのような即興性の高い音楽をやっている時、
何かの偶然によって神がかったプレイをする時がある。
「神が降りて来た」
とミュージシャン達は言う。
頭が一瞬真っ白になり、
自分が叩いているのではなく、何か自動書記のように、
何者かが乗り移ってプレイしているような・・・
その時に見る真っ白な世界に彼がいるんだ。

千葉でのドラムソロはそんな世界で叩いていた。
それを見ていた仙台の彼女もきっとその世界に連れて行かれたのだろう。
「爆風の再結成コンサートでは是非あの曲をやって下さい」
彼女は確かそう言った。
「みんなに一応提案はしておくよ」

結局はどちらかと言うとそんなマイナーな曲は演奏されることはなかったが、
彼女自身も母親が病気になってしまい、結局そのコンサートを見に来ることは出来なかったと言う。
そしてその後自分自身も病気となりライブに足を運ぶことはなくなった・・・

彼女の手紙は続く・・・

久しぶりのライブ。
末吉さんにどうしても読んで欲しい文章がある。
とある舞台公演でパンフレットに挟まれていた小冊子、
その脚本家が書いたというとある女性の物語。

その女性の言う一言がどうしても末吉さんを連想させてしまう・・・

彼女の手紙を読み終わってから、
私は続けてその小冊子を読んだ。
そして居ても立ってもいられなくなって、その脚本家に連絡を取った。

彼の劇団は7月8日から19日まで江古田ストアハウス
http://www.storehouse.ne.jp
というところで公演をやるというので必ず見に行くと伝えた。

その文章を執筆したご本人の許可を得てここにご紹介したいと思う。

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文章で描く劇団員の肖像画
第1回~メトロの幕開けを告げる歌姫~「ダリンのこと」

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『メトロポリス・プロジェクト』が始まって、はや5年が過ぎた。
Vol.1の上演の時から、ずっと客入れの曲は同じ曲が流れている。
アルバム『Na Caoirigh in Gabhla』に収録されている『Aquarius』という曲だ。

歌っているのは林田里織。
我々は彼女をダリンと呼んでいる。

最初は林田を音読みして.リンダ、リンダと言っていた。
だが、彼女はある日、
「ミュージシャンって言葉をひっくり返して言うじゃない、
メシのことをシーメとかさ、女の子のことをナオンって言うじゃない。
だから 、リンダっておかしいと思うんだよね」
と言い出した。
「だから、今日からリンダをひっくり返してダリンって呼んでくんないかな」
漢字で害くと『打鈴』と書くという。

突っ込みどころがありすぎて、誰も相手にしなかった。
わかつた、わかったと、みんな普通にダリンのことをダリンと呼ぶようになった。
というわけでダリンはダリンになった。
やがて、ダリンはじょじ伊東という男とバンドを組んだ。
バンド名はもちろん『ダリンとじょじ伊東』。
時々、忘れた頃にライブをやるバンドだった。

私はゲール語で歌を歌いたいんだ。
ダリンがいつ、こんなことを言い出したのか覚えていないが、
ひどく暑い日だったことだけは覚えている。
いつかの夏だった。
「アイルランドの曲が好きだったの。
一番好きなのはね、フェア・グランド・アトラクションっていうので、
だいたい自分の好きな曲を並べていったら全部アイルランドの曲だったの。
アイルランドの曲ぱっか。みんなゲ一ル語なの」
「ゲール語?」
「じんのさんだって聞いたことないでしょ、ゲ一ル語なんて」
「ないね・・ゲール語ってなに?って感じだもの」
「ケルト言語の一つなんだけどね。私もね、よくわかんなかったんだけど、調べたの」
ダリンは言った。
「そしたらね、ゲール語って今ではもうぼとんど話されることのない言葉で、
元々はスコットランドで使われていたらしいんだけど、
1746年にイングランドとの戦争に敗れて、
キルト着用、バグパイプの演奏と一緒にゲール語で話すことを禁止されたんだって。
だから、スコットランド諸島と西海岸、グラスゴーっていうところを中心に、
今ではもう5万人くらいしか話すことができないらしいの。
しかも、例えば、ゲール語をお父さんが話すことができたとしても、
お母さんが知らなかったら、家族の中の話にゲール語が出てくることはないから、
子供は当然.ゲール語なんて知らないってことになっちゃって、
どんどん今、ゲール語を話す人がいなくなっちゃってるらしいの」
絶滅していく言葉。
それがゲール語だった。

そして、今、ダリンはその消えつつある言葉を憶えなければならないことになった。
「でも、やるしかないからさ、
それをやらないと先に進めないんだから、
私、それをやらないと、
自分の好きな歌、歌えないんだからって、
そう思ったらもうやってやるよって」

そして、冒険へと旅立っていった。
その冒険の報告をしに来た時には年を越していた。

これは、私がまだ入形を作るためにマンションを借りていた頃、
屋根裏の三角の部屋でダリンと茶を飲みながら話したことだ。
私はこれを、書いて残しておかなければならない。

「じんのさんだから言うけどね」
ダリンはいつも私に話をする時、必ずそう前置きしてから話を始めた。
それは秘密にしておいて欲しいという意味ではない。
だいたいにおいて、ダリンは何を言っているかわからないが、
慣れてくると言わんとしている事はなんとなく理解できるようになる。
言葉をあまりコミュニケーションの道具として使わない人だった。
だから、本当の意味で
「じんのさんだから言うけど」
とダリンに言われたのは、後にも先にも一度だけだった。

その話はまたあとで話す。

「最初はね、じょじとライブをやったんだよね、
1年半くらい前かな。東中野の小さなライブハウスで・・・」
ダリンは話し始めたが、
ここで書かれているように整然と話したわけではないし、
私は私で自分の記憶で書いている。
二人の会話はこんなふうにスムーズには進んだわけではない。
「それでね、その本番で、私、初めて歌っている時に雑念が入ったの。
お客さんがガーッと襲ってくるっていうか、
とにかく歌以外のことを歌っている時に思ったの。
そんなの生まれて初めてだった。
だから歌っている最中に『ダウト!』って叫んだの」

ダウトォ!

ダリンはその時の気持ちを再現して見せたかったのか、
拳を勢いよく宙にあげて叫んだ。
「ダウト!ってなに?」
「ん?意味はよくわかんないけど、ダウトォ!って感じだったのよ」
ダウトの意味は私にはわからなかったが、
ダリンの言う「ダウト!」の気持ちはわかった気がした。
そう、不思議なことにダリンは
どんなに間違った言葉、意味不明の言葉を使ったとしても、
その時の気持ちを正確に人に伝えることができる人だった。

「とにかくね、いやだーって思ったの。
なにか間違ってる一って。
もうそのライブ自体はね、最悪。
自分でも『わかりました、最低です。ごめんね一、来てくれたみんな!』って思ったの。
でも、やっぱり見てくれた人の中には初めて見てくれた人もいて
『よかった』って言ってくれる人もいたんだけど、
でも、白分がダメだと思ったらダメなのよ。
だって、私、生まれて初めて人に意見を求めたもん。
この私が。
だってそれまでは『歌』ってさ、歌って終わったら、それまででしょ。
それが『歌』ってもんじゃない。
だから終わった後で人の意見とか聞くのって意味ないって思ってたの。
でもね、その時は聞いたの。
さんざんみんなが言うわけよ。
それがさあ、全部当たってるんだよね。
そうなの。だって、ダメだったんだから。
わかるでしょ、じんのさん、
一つしか取り柄がなくて、
ただ一つ愛しているものがあって、
その一つがダメで、愛せない時、どんなにつらいか。
どんなに哀しいか。どんなに情けないか』

じんのさんだから話すと言ったのはここの部分のことだったんだろう。
「わかるでしょ、じんのさん、
一つしか取り柄がなくて、
ただ一つ愛しているものがあって、
その一つがダメで、愛せない時、どんなにつらいか。
どんなに哀しいか。どんなに情けないか」

「うん、それでどうしたの?」
私は先を続けるよう、促すだけだ。
「その時、朝までぐだぐだして、
結局、私の中になんにもなくなっちゃったわけよ。
でね、そのなんにもなくなっちゃった私に、
じょじょが『まあまあ』って言って、慰めてくれるんだけど、
誰もさあ、そんなふうに歌がダメだって思っている私なんか見たことがないから、
どんな言葉をかけていいのかわからないんだよね。
慰める言葉がなくてそれで結局『寿司おごってやるから』って
朝7時に回転寿司に連れて行かれたの。
それでじょじょが回っている寿司を取ってくれて
『もうダリン、気にすんなよ』って。
でも、おごってくれたわけじゃなくて、割り勘だったんだけどね。
じょじょは回っている寿司を取ってくれただけだったんだけどね。
それでさ、寿司がさ、ず一っと去っていくわけじゃない、目の前から。
その去っていく寿司を見て私、決心したの」
ダリンはそう言い切ってまっすぐに私を見た。
「何を決心したの?朝の回転寿司屋で?」
「去っていく寿司を見てね… 私も行こうって」
「行こうって、どこに?」
「今、こうやって帰って来たから言えることなんだけどね。
あたしがその時思ったのは
『音楽を愛しても罪にならない国に行くんだ』って決心したの」
「音楽を愛しても罪にならない国?日本は そうではないの?」
「うん、私はね、ただ、音楽が好きなの。
歌っているのが好きなの。
それでどうこうしようとか、売れるとか売れないとかね、
すぐそっちに行っちゃうでしょう。
売れないとダメみたいなところがあるでしょう。
売れることを考えないと、お金にすることを考えないと、
その歌っていること自体がダメって思われちゃうじゃない。
でもね、本当はちがうの。
歌っている私がいて、それにはそれ以上の意味なんてないの。
だから、意味なくってもいいよって言ってくれるところに行きたくなったの」

それからダリンは、自分のアパートの荷物を少しつつ友遠の家に運んで行った。
「押入、4分の1貸してって、四人のところに行けば、
押入に入っている物がとりあえずなくなるでしょう。
実家に送れる物はこっそり送るでしょう」
とにかく計画的にできるだけ短期間でダリンは体ひとつにならなければならなかった。
もちろんお金も貯めなけれぱならないから、バイトもしながらの話だ。
彼女の友人達はそんな相談をダリンが持ちかけたとしても、わけを聞かなかった。
どこ行くの?何しに行くの?何の為に?
とか、そんなことは誰も聞かなかった。
「それでね、押入空けてくれて
『帰ってきたら連絡ちょうだいね』
って言われた。
みんなわかってるたんだ。
私が体ひとつでどこかへ行こうとしていることを。
それでインターネットで音楽のサマースクールを検索したの。
いっぱいあって、もうそれだけで嬉しくなっちゃったんだけど、
でも、日本からどうやってそこに通えぱいいのか、なんて書いてないのよ、そこには。
まあ、当たり前なんだけどね。
官公庁でも調べてみたんだけど、ありきたりな留学しかなくて。
私がみんなの押入をちょっとづつ借りているのは、留学するためってのではないんだよね。
行ってみたいの、それで歌を習いたいの、そこで歌ってみたいの。
それって留学?ちがうよね。
そんなの留学って言わないよね。
それをなんていうかわかんないけど、
とにかく私はアイルランドに行きたかったの。
もう行くしかない。行きたい。
でも、アイルランドだよ。
普通に考えて、どうやって行けば行けるんだろうって・・」

普通に考えればダリンが言っていることは無茶苦茶だった。
いくら東中野のライブハウスで失敗しても、
いくらアイルランドの音楽が好きでも、
いきなり、方々の友達の家に荷物を預けて、
誰一人知り合いのいるわけでもない、アイルランドに行って歌を習い、
歌いたいとは言わないものだ。
これを冒険と言わずして何を冒険というのか。
そう、ダリンがやったことは『冒険』だ。
フィクションの中で冒険する話などいくらでもある。
でも実際、こうして『冒険』という言葉に値する行動をとった人の話を聞くのはそうそうあることではない。
まわりにそうそう『冒険』したことのある大人がいるものではない。
『冒険』をしたことのある大人を知っていることすらない。
ダリンはその『冒険』してきた数少ない人だった。
「それでアイルランドにどうやって行ったらいいかわからないから、
とりあえずオランダに行ったわけよ。
オランダにね、前に『ロッキー・ホラー・ショー』に一緒に出てた女の子が住んでるのよ」
ダリンはアマチュァ劇団が上演した『ロッキー・ホラー・ショー』に出たことがあった。
冒頭、お米を投げられる花嫁の役だった。
『ロッキー・ホラー・ショー』の説明を少し。

『ロッキー・ホラー・ショー』というのは元々ロンドンで上演されたミュージカルだ。
初演は1973年のこと。
ロンドンのミュージカルというと、お金のかかった豪華で本格的な歌があり、
ダンスがあり、ショーアップされた物を思い浮かべるかもしれないが、
この『ロッキー・ホラー・ショー』が本当に最初に上演されたのは、
席が63しかない小さな映画館で、
しかも映画が終わったあとの夜10時半からの上演だった。
こじんまりとした場所で、のちのち伝説となり、
数多くの熱狂的なファンを生み出すことになるとは、この時、誰一人思わなかったに違いない。
そこで、6月の19日に初日の幕が開き、7月7目までの上演予定だったが、
思わぬ好評だったために、7月一杯そこでの上演が続いた。
どれくらいこの公演が成功したかといえぱ、
この7月一杯の初演が終わった直後、
63席の劇場からその4倍の広さを持つチェルシー・クラシックシネマに進出、
そして、10月31園にはさらに広い350席のキングスロード・シアターへと移ったくらいだ。
こうして『ロッキー・ホラー・ショー』は
ロンドンのイブニングスタンダード紙により『1973年ベストミュージカル』に選ばれた。
まさにトントン拍子に成功した夢のようなミュージカルだった。
その後も『ロッキー・ホラー・ショー』の快進撃は続く。
翌1974年3月19日にアメリカデビュー。
やがて映画になり『ロッキー・ホラー・ピクチャーショー』として全世界に配給され、
日本でも1975年に公開された。
では『ロッキー・ホラー・ショー』というのはどんなミュージカルなのか?

教会で結婚式を挙げたカップルのブラッドとジャネットは、
恩師に報告しようと車で郊外に向かう。
途中、雷雨で道に迷い近くの屋敷に電話を借りに行くが、
彼等を出迎えたのは怪しいせむし男で、
その屋敷の中ではドクター・フランクの手によってこの世に生み出された、
人造人間ロッキーの誕生を祝う盛大なパーティーが行われていたのだった。
彼等の目の前に黒マントに身を包んだ怪人ドクター・フランクが現れ、
健全なカップルだった二人は
次第にこの屋敷の住人達の持つゴージャスでちょっとエッチな世界の虜になっていく…

話はまあ大したことはない。
そう、こうやって話だけ書くと、
どうしてそんなにこの『ロッキー・ホラー・ショー』が全世界で熱狂的に受け入れられているのか不思議に思われるかもしれないが、
他のミュージカルと決定的に違うのは、
この映画は黙って椅子に座って見ていなくてもいい映画ということだろう。
普通、映画館に行くときちんと膝を揃えて座って、
映画が始まったら、他に見ている人の邪魔にならないように最後まで静かに見ていなければならない。
けれども『ロッキー・ホラー・ショー』は映画が始まったら、
映画に出てくる人達に向かって、かけ声をかけてもいいし、
ダンスが始まったら客席の通路に走り出て、映画の登場人物達と一緒に踊ったりしても構わない。
映画の途中で見ている人達のために映画の中でダンスの振り付けを教えてくれるコーナーもあるので、
特別に振りを憶えていかなくても、ぽんとにその場ですぐに踊れるようになる。
だからみんなダンスのシーンになると、
映画館のステージに上ったり、通路に出たりして画面の入物達と一緒に踊り始めてしまう。
それともう一つ大事なことは、
この映画を見るために持って行かなけれぽならない物がいくつかあるということだ。
お米に新閲紙、ライターやクラッカー。
さっき『ロッキー・ホラー・ショー』の冒頭に結婚式のシーンがあると書いたが、
外国では教会で縞婚式を挙げると、
新郎と新婦が教会から出て来るとき、お祝いにお米を彼等に向かって投げるものだ。
だから、映画の最初の結婚式の場面で見ている人達はみんな、お米を投げるのである。
もちろん、映画館のスクリーンに向かって投げるわけだから、
画面の中の新郎新婦に届くわけはない。
投げたお米はスクリーンに当たるだけだし、
ヘタに一番前の席に座ったりしてしまったら、
後ろの人が投げて来るお米が隆ってきたりもするのだ。
その場にいあわせないと、よくわからないかもしれない。
世の中にはこんなふうにして見てもいい映画があるのだ。
お嫁さんと花婿さんでドライブしていると、雨が降ってくる。
客席で見ているお客さんはこの雨をしのぐために新聞紙を広げる。
客席中が新聞紙だらけになるわけだ。
映画の中の雨に降られる二人が人気のない山道で困っていると、
遠くに屋敷の明かりがぽつりと見える。
その時、お客はみな手に手にライターをつけて、その光を見せてやる。
映画館の客席の中にライターの火が一斉に灯る。
そして、屋敷に入ることができた二人の前にこの映画の本当の主人公ともいうべき、ドクター・フランクが現れる。
ここがクラッカーの鳴らしどころだ。
劇場の客席のあちこちからパン!パン!パン!バン!バン!パン!
劇場中に火薬の匂いがして、短い紙テープが宙を舞うのだ。
『ロッキー・ホラー・シ∋一』は映画であって映画ではないのかもしれない。
だから、本当に普通に映画を見ようと思って来たお客さんは、
この『ロッキー・ホラー・ショー』の楽しみ方を知っているお客さんに驚く。
そもそも映画というのは
始まったら他の人たちの迷惑にならないように、黙って見ていなければならないものだ
と、みんな小さな頃に教わっていたはずなのに、だ。
客は映画に向かってお米を投げたり、通路に出て踊りだしたり、クラッカーを鳴らす。
でも、それが『ロッキー・ホラー・ショー』の正しい見方だ。
そうやってみんなで騒いで見る映画、それが『ロッキー・ホラー・ショー』なのである。
こんな映画は滅多にあるものではない。
だから、みんな『ロッキー・ホラー・ショー』を大事にする。
外国の映画を日本で上映する場合、上映権というのを買わなければならない。
日本で上映してもいいよ、という権利のことだ。
もちろん契約だから、それには期限がある。
今から五年とか十年とか、映画によってまちまちだが、
その期限が切れると上映できなくなるのだ。
映画の広告でよく『リバイバル』と書かれいるが、
上映期限の切れた物をもう一度買いなおして
映画館でまた向こう五年、十年とか上映できるようになったものを『リバイバル』といい、
上映の期限が切れていないけれども、もう一度映画館でロードショー公開する時は『再演』という言葉を使う。
『ロッキー・ホラー・ショー』はもう何度も上映の期限が切れ、
また誰かが上映権を買い、また切れて・・ということを繰り返している。
上映の期限が切れる前はそれこそ、日本全国から『ロッキー・ホラー・ショー』のファンが映画館にやって来て、
最後の上映を見ながら、お米を投げ、通路で踊り、クラッカーを鳴らしてきたのだった。
まだネットもなにもない時代の話だ。
そして、それとは別に、元々が舞台のミュージカルだった『ロッキー・ホラー・ショー』を舞台版のまま上演しているところもあった。

ずいぶん『ロッキー・ホラー・ショー』の話が長くなってしまったが、
その最初にお米を投げられるそのお嫁さん役をダリンはやったことがあった。
映画ではスーザン・サランドンがやっていたジャネットという役だ。
ダリンと知り合ってすぐの頃の話だ。
そのただでさえ騒がしい『ロッキー・ホラー・ショー』をなんと年越しライブでやった事があって、
それを私はダリンに誘われて見に行った。
私はその時、初めて彼女が歌っている姿を見た。
そこには普段、顔を合わているシャイな林田里織とは別人のリンダが歌い、
踊り狂い、シャウトしていた。
ピンクのレオタードを着て両胸に鏡餅を二つ入れていた。
「なんだこれは?」と訊いたら「グラマラスでしょう?」と言っていた。

その数年後に、私が一人芝居の連作シリーズをはじめたとき、
ダリンに一本、絶対にダリンにしかできない、15分のお芝居を書いた。
音楽が好きでバンドやら色々やっていた女の子が、
音楽ではうまくいかず、ついに観念して小さな会社に就職することになる。
そして、その会社の人達が新入社員の彼女を歓迎して、飲みに連れて行ってくれ、
その後の二次会でカラオケボックスに誘われる。
彼女はもう二度と歌を歌うまいと決心していたのだが、
あまりにもその会社の人々が勧めるので、断りきれなくなり、
ついに、自分の一番好きな歌をアカペラで歌うことなる。
それが『ロッキー・ホラー・ショー』の中の一曲『この遣をバラ色に染めよう』だった。
彼女はそれを歌っているうちに、やっぱり自分は歌を歌わなければダメだと気づき、
会社のみんなに
「今日一日、こんな世の中を知らない奴にいろいろと親切にしてくれてどうもありがとう」
とお礼を言う。
「でも・・でも、もしかしたら、明日私は会社に来ないかもしれません…
すみません・・でも、でも・・それでいいんです」
再び彼女は歌い始める。
アカペラのまま歌い上げた彼女は「どうもありがとう!」と叫んでお芝居は終わる。
終わった直後に狛手が来た。
音の大きな、激しい、刺さるような拍手だった。

話を元に戻そう。
ダリンがそうやって貯めたお金はそれでも最終的に40万ほどだった。
40万からまず、オランダまでの飛行機代14万を引くと残りは、26万。
そこから旅行に必要な物を買わなければならない。
「んで買って、変圧器やらなんやら、いろいろ揃えていたら結局、手元には13万しかないの。
13万よ。13万しかなかったら、日本じゃ1ヶ月暮らせないのに、
私はもう行くと決めたから、その13万を持って、オランダへ飛んだの」

ダリンはオランダで日本人が集う焼鳥屋でバイトをしながらまた金を貯め、
3ヶ月後にようやくイギリスにたどり着いた。
「バスに乗ったの。
バスはねヨーロッパ・ユーロラインって、すんこい激安でどこにでも行けるの。
すごい時間かかるんだけどね。
だってロンドンまで行っても6,000円くらいなんだもん。
それでまた飛行機のすっごい安いやつでようやくイギリスまで来たのよ。
でもさあ、こんだけ苦労しても、まだイギリスなんだけどね」

イギリスに入国する時、ダリンが書いた出入国カードに記入漏れがあり、
入国管理官が訊いた。
「なんのためにこの国に入るのか?」
ビジネスか、留学か、観光か、どれかをチェックすればいいだけの項目だ。
しかし、ダリンは記入するのを漏らしたわけではなく、記入できなかったのだ。
「だって、ビジネスでも、留学でも、観光でもないんだもん」
だから、入国管理官に止められて、訊かれたのだ。
入国するすべての人に訊く、いつもの質問だ。
「なんのためにこの国に入るのか?」
彼女は答えた。
「To SING」
歌うために。

そして、ロンドンにたどり着いた時、教会の前にホームレスが並んでいた。
ご飯がもらえるという。
ダリンもその後に続いて、並んで待った。
そして、プレートにご飯をよそってもらって、食べていたら、
隣のホームレスがそのご飯が「まずい」と言って残したのだという。
ダリンは怒って
「こんなにおいしいものをタダでもらって残すとはなにごとだ」
と英語を駆使して説教したらしい。
それでも、そのホームレスが反省する気配がないので、
ダリンは彼が残したものを全部目の前で食ったそうだ。
それをたいらげた後で、
「ぼら、こんなにうまいんだ」
と言ったそうだ。
そういう人だった。

そして、ある時私は、『メトロ』で役者で出て欲しいと言った。
具体的な日程も決まり、チラシを刷るかという時のことだった。
ダリンから電話があった。
「出られそうもない」と言う。
そこで、本当の意昧で「じんのさんだから言うんだけどさ」と言う話が始まった。
「私はガンなんだ」と告げられた。
だから『メトロ』には出られないと。
でも、入院して手術すれぽきっと治るから、
またその時に、その話をしようと。
「絶対に他の人に言わないで」
ダリンは頑なにこの件が他の人に伝わることを拒んだ。

入院した彼女を見舞いに行った。
午後4時、ベッドの周りは本やらCDやらが、とっちらかっていて、
いかにもダリンのベッドという感じだった。

ダリンは私の顔を見るなり「蕎麦が食いたい」と言った。
いっしょにこれから食いに行こうと、上着を羽織った。
勝手に病院を抜げ出していいのか?と、聞いたら、
いいんじゃないの別に、と吐き捨てて先に歩き始めた。
「病院の地下通路を通るのが近道なんだ、
この地下道は遺体が通る地下道だからあんま人がいないんだよ」

蕎麦屋は5時からの営業で準備中の札がかかっていた。
ダリンはその扉を揮し開け「ダメですか?」と直接交渉していた。
一事が万事、そういう人だった。
「ダメです」と言われ、喫茶店で蕎麦屋の開店を待つことになった。
そこまでして蕎麦が食いたかったのか?
食いたかったのだ。

「じんのさんのお茶代、出すからさ」
仕方ないから「じゃあ、蕎麦はおごるよ」と私は言った。
二人でうだうだとどうでもいい話をして、蕎菱屋が開くのを待った。
おかしいと思った。
この時間はなんなんだろうと思った。
こんな時間があるわけがない。
どうしてこんな時間が用意されているんだろう。
ずっとそればかり考えていた。

そして、二人で蕎麦を食った。
病院の地下通路のところまでダリンを送った。
「ここまででいいよ、じゃあね」
その時はそこで別れた。

ダリンに「出て」と言った『メトロ』のVoL 12を彼女は見に来た。
終演後、ロビーでダリンを抱きしめた。
愛しい人がいたら、なるべく抱きしめておくべきだ。
抱きしめた時の記憶を刻みつけておくべきだ。
それができてよかった。
その1ヶ月後。

2004年1月19日、彼女は先に逝った。

彼女の歌う『アクエリアス』聞くと、
我々はまた新しい舞台の幕が開く緊張を覚える。
そして、同時に新しい舞台の幕が開く瞬間に胸を躍らせる。
ダリンの歌声を聞く度に、同じ気持ちになる。
これからもずっとダリンの曲で『メトロ』は始まる。
いつの日か、300話の上演に辿り着いた。
その時も、この曲がかかり、ゆっくりと照明が落ちていき、
暗闇に包まれて、彼女の声だけが、その闇に響くだろう。
そして、物語がまた始まるだろう。

なんのためにこの国に入るのか?
入国管理官は訊いた。
彼女は答えた。
「To SING」
歌うために。

Posted by ファンキー末吉 at:02:34 | 固定リンク