
2006年6月30日
映画音楽は楽し(安し!!!)
今日、6月30日は日本で亡くなったBEYONDのボーカルのコマ君の命日である。
でもワシはそんなことまるっきり忘れていた。
日本のBEYONDファンからメールをもらって初めて思い出した。
「気がついたら家駒の年齢を遙かに超していました」
おう!!!確かにぃ!!!
死んだ人間は年をとらんからのう・・・
しかし、昨日香港に帰るWingを空港まで見送りに行って思ったが、
(なんでワシ・・・忙しいのにそんなことまでしとるんやろ・・・)
あいつこそあれで43歳っつうのはある種サギである。
(大村はんとWing.。実は二人の年齢差はたったの3歳・・・)
送りに行って帰りに嫁とメシを食いに行ってたらいきなり雷がなって豪雨となった。
電話をしたら(何でワシ・・・そこまでするんやろ・・・)
予想通り飛行機は天候待ちで飛ばない。
ざまー見ろである。
アイドル顔でせめて30歳ぐらいにしか見えなくて男前でアイドル顔でも
しょせん天候にはかなわんのじゃ!!は、は、は・・・
かく言うワシは、
家を出る時うちでリハーサルをしていた新疆ウィグル族のバンドが
「お祈りの時間だ」と言ってイスラム絨毯やらを院子にしきつめて、
メッカの方を向いて全員でお祈りをしてたのだが、
帰って来たらどしゃぶりの中、ずぶぬれになってまだお祈りをしていた。
わけもなくむっちゃくっちゃ感動した・・・
そんなことはどうでもよい!今日、6月30日は実は、
ワシが映画音楽を担当した「瘋狂的石頭(Crazy Stone)」の公開日なのである。
監督は「寧浩(Ning Hao)」。
香港の大スター劉徳華(アンディー・ラウ)が投資して、
アジア各国の6人の若い監督に映画を撮らそうと言う壮大な企画の中で、
中国の監督として選ばれたのが彼。
実はワシのアシスタントをやっててくれた重田が
彼とは留学時代に一緒にバンドを組んでた仲間であったと言うことから、
「重田ぁ・・・実は予算を全部撮影で使い果たしてしもうてなぁ・・・
音楽作る経費がほとんど残ってないやけど何かええ方法ないかのう・・・」
と相談されたところからこの話が始まる。
「末吉さんだったら紹介出来るけど、いったいいくら残ってんの?」
と聞いた重田に監督が答えた額は、
さすがにメルマガでは何でもネタにするワシでもちょっと公表できないぐらいの値段。
(公表したことのある貧乏ネタ:http://www.funkycorp.jp/funky/ML/60.html)
「冗談じゃないっすよ。とりあえず断っときましたから・・・」
そう言う重田に一言。
「でもうちはスタジオがあるからね。
音楽製作物の経費のほとんどはスタジオ代だからね。
それが外に出ないと言うことは結構安い値段でも受けれるっつうことよ」
しかし時は遅く、
既に中国で一番安い映画音楽家にもう発注してしまったと言うことで、
「ま、久しぶりに映画音楽が出来ると思ってたら縁が無かったのね」
と思ってたら、
「末吉さん!どの中国人映画音楽家でもこの値段じゃ出来ないって
全部サジ投げられて困り果ててるそうなんですけど・・・」
と言われ、
「じゃあ人助けだと思って私がやりましょ」
と引き受けたのがなれそめである。
つまりワシは全中国で(と言うことは全世界で?)
一番安い映画音楽家であると言うことである。
まあ人助け、人助け・・・
かくして映画音楽の製作が始まった。
映画音楽は1曲の時間は短いが、しかし曲数は半端じゃなく多い。
曲を作ると言う作業は実は5分の曲を作るのも1分の曲を作るのも労力は同じである。
そんなのをバージョンを変えつつ少なくとも50曲は作るんだからどれだけ大変か。
渡された映像を見ながらワシなりに解釈して、
「太陽にほえろ」と「ルパン3世」を足して2で割ったような世界観で全てを構築し、
ついに第1回目の監督との接近遭遇である。
ワシ的には非常に自信があった。
聞いたとたんにきっと監督は涙流して喜び、絶賛し、涎垂らして放心し、
ヘタしたらウンコもらしてへたりこむかもわからんので、
一応ティッシュと雑巾と消臭剤を用意して、
OKが出ればすぐレコーディング出来るようにミュージシャンまでブッキングし、
そのまま怒涛の酒盛りまで出来るようにあらゆる酒まで買って揃えて反応を見た。
「音楽そのものは非常にいいんですが・・・
ちょっと僕の考えてたのとは違いますねぇ・・・」
それから延々彼は自分の映画論を語り、
ワシは用意した酒を飲みながらそれを聞いた。
買い揃えた酒は大半がここで消費されることとなった。
「理解してくれてありがたいです。では僕はこれで・・・」
と言うわけで彼が酔っ払ったワシを残して家路に付く。
何のことはない「全部作り直し」なのである!!!
こんなやりとりを何度も繰り返す。
作った曲は100曲をゆうに超え、参考用にもらったDVDを何度も見、
酒量は限界を超え、当初の締め切りの期限はとっくに越していた。
結局は2ヶ月以上をこのプロジェクトに費やしたであろうか・・・
自給で割ったら(割りたくない、割りたくない)確かに仕事としては最悪である。
しかしやっぱり映画音楽は楽しい。
何故か?それはひとえに「映画は究極には監督ひとりのものである」からである。
ポップスは「売れること」を目的として製作される。
会った事もない、実像もへったくれもない「庶民(中国語で老百姓と言う)」
と言う人々をターゲット・・・と言うよりも神より大切なものとして作られる。
高度な音楽性のものは極力排除され、
「聞く人バカなんだからもっとそこまで落とさないと売れないよ」
と訳知り顔のディレクターやプロデューサーはそう言い、
「いやーこれは新しいよ、これは売れるよ、ファンキーちゃん」
とかわけのわからないことを言い出したらやっとそれで仕事が終わるが、
その神様より大事な老百姓が果たしてそれを好きかどうかは発売するまでわからない。
まあ「売れるため」に作った音楽が売れなかった時ほどみじめなものはないが、
結局売れるためにみじめな思いをして製作し、
売れなくてみじめな思いをしてお金をもらう仕事っつうのはどないなもんやろと思う。
しかし映画音楽は違う。
世界で一番「凄いもん」を作っちゃるぞ!が原点である。
わけのわからん不特定多数の神様のために音楽やるより、
ひとりのその「神様」が納得するものを作ればいいのだから気が楽である。
時には「この編集はねーなぁー、俺ゃこれじゃストーリーわかんなかったべ」
と逆にその神様の考えにケチをつけたりもすれば、
「あなたはこのシーンでどんな感情が沸き起こって来ますか?
それに対してあなたがつけた音楽はどのような感情を沸き起こすものですか?」
と神様からケチをつけられたりする。
まあ早い話、監督と言うきさくな神様と一緒に大きな遊びをやっているだけなのじゃ。
もの凄く音楽性の高いことをやりたければやればいいし、
ごりごりのロックをやりたければやればいい。
要は監督が満足すればそれでいいのである。
「監督ぅ・・・
最後はやっぱ生のオーケストラ入れてガーンとぶちかますのがええんでねぇの?」
まあ作り手としてはどんどん欲が出てくる。
「そんなことが出来ますか?」
顔が心なしかほころぶ神様。
「んだぁ。オラはこう見えてもこっちでもう数十曲オーケストラ録ってるがね」
ドラマーのくせに弦がアレンジ出来る変態である。
「末吉さん、何言ってんですか。予算がどこにあるんですか!」
止める重田を振り払い、泣き叫ぶ嫁を殴り飛ばし、
つられて泣き出す子供たちを質屋に売り飛ばし、
力なく説教する高知の親を姥捨て山にぶち捨ててまで自腹で録ろうかと思ったが、
髪の毛一枚のところで思い直し、
不本意ながら予算内で全ての音楽を録り終えることが出来た。
完成して納めてお金をもらえば仕事は終わりである。
しかし映画の場合は是非それを劇場に見に行かねばならない。
試写会の招待状が来たので大村はんとそれを見に行って来た。
公開前に既に話題の映画となっており、
特に音楽は業界では大絶賛されていると言う。
DVD海賊版全盛のこのご時世で、
既に300本もの劇場公開が決まっていると言うのは物凄いことである。
期待の新作に劇場中がかなり興奮気味で、
ちょっと緊張気味に見ているワシなんかを尻目に、会場は爆笑に告ぐ爆笑。
そう、この映画は実はブラックユーモアをちりばめたコメディー映画なのである。
舞台は中国の重慶で台詞は全部四川地方の方言なので、
製作している時は台詞はわからんわ、台本見て頭で理解しても笑えんわ、
で結局一度も笑ったことなかったが、
そうかぁ・・・コメディーってこうやって会場で爆笑すんのね・・・
中国語の字幕がついているのでそれを追いながら、
隣の大村ハゲ頭がどうして笑ってるのかをいちいち聞いて来るので、
それに答えながら訳しながら見ているとワシは結局最後まで全然笑えんかたが、
最後には会場全部大拍手で幕を閉じたり、結果としては試写会は大成功である。
聞くところによると、来年あたりには日本でも公開が決まっているらしい・・・
関連サイト:http://www.imx.ne.jp/info/2006/0314.html
http://www.ffcjp.com/kutsu/news/4thNewsletter.pdf
万が一これが全世界でヒットしたりなんかすると、またワシ・・・印税生活ですかぁ?!!!・・・
「重田くん、ところでこの音楽の著作権って一体どのようになっとるのかね?」
恐る恐る聞いてみる。
金がないと言うからタダ同然でやってやったのである。
大金を生むかも知れないならそこから取れるものは取りたいと言うのが人情であろう。
「何言ってんですか、
末吉さんがいいって言うから奥さんが替わりに契約書にサインしたじゃないですか」
と言うことはこれ・・・どれだけ売れてもワシの元には1銭も入らないのね・・・
ま、いい。製作した音楽ソフトも海賊版やったし、資料用に見たDVDも海賊版やった。
これで印税もらったら罰が当たるじゃろう・・・
と言うわけで、今日は晴れてこの映画の公開日。
過去自分が携わった映画の公開日には毎回ワクワクしながら劇場に行った。
爆風スランプの「バトルヒーター」(出演)・・・劇場に人おらず・・・
香取慎吾の「香港大夜総会」(映画音楽)・・・劇場に人おらず・・・
高島礼子の「劇場版ショムニ」(映画音楽、出演)・・・劇場に人おらず・・・
今日はBEYOND追悼イベントが北京のライブハウスであり、
とあるアンダーグラウンドバンドに頼まれてドラムを叩きに行くので見に行けない。
まあこれだけ評判の映画なんだから客の入りもきっと結構なもんじゃろう。
「ワシがたずさわった映画はみなコケる」
と言うのをジンクスとして信じ切っていたが、
実は「ワシが公開日に劇場行くとコケる」のかも知れない。
今日はおとなしくBEYOND追悼イベントに専念するとしよう。
ファンキー末吉
瘋狂的石頭(Crazy Stone)関連サイト
http://ent.sina.com.cn/m/c/f/fkdst/
http://post.baidu.com/f?kw=%B7%E8%BF%F1%B5%C4%CA%AF%CD%B7
http://blog.sina.com.cn/m/ninghao
http://www.FFCJP.com/
http://www.c-c-club.net/director/ninghao.htm
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2006年6月23日
Wing北京コンサートを終えて
葉世榮ことWingは香港のBEYONDと言うバンドのドラマー。
BEYONDの連中とは、彼らが日本で活動を開始すると言う時に知り合い、
ボーカルのコマが日本のテレビ番組の収録中の事故で死亡して香港に帰ってゆくまで、
ほぼ毎日と言っていいほど一緒に酒を飲むと言う仲だった。
コマが日本の病院で息を引き取った時、
病院の待合室でその知らせを受けたWingがショックで気を失い、
俺の腕の中に倒れ込んで、突然ケタケタと笑いながらうわ言でこんなことを呟いた。
「あいつは今、真っ白な綺麗なところにいる。
そこは酒を飲むより、エッチするより、もっともっと気持ちのいいところなんだ・・・は、は、は・・・」
俺はその世界と言うのが、ドラムを叩いている時に時々味わうことがある、
妙にトリップした浮遊感のあるあの世界と同じであると思い、
偶然性が大きく作用するライブの高揚感のあの真っ白な扉の向こうにコマがいるんだと今でも信じている。
BEYONDの他の2人とは今でも会えば楽しく飲む仲間ではあるが、
Wingほど頻繁に連絡を取ったりする仲ではない。
同じドラマー同士と言うのもあるし、性格がアホであると言うのもあるが、
やはり彼との間にはその後もいろんなドラマがあったからと言うのが大きいだろう。
(関連ネタ:http://www.funkycorp.jp/funky/ML/13.html、
http://www.funkycorp.jp/funky/ML/68.html、
http://www.funkycorp.jp/funky/ML/70.html、
http://www.funkycorp.jp/funky/ML/72.html、
http://www.funkycorp.jp/funky/ML/73.html、
http://www.funkycorp.jp/funky/ML/75.html、
http://www.funkycorp.jp/funky/ML/77.html、
http://www.funkycorp.jp/funky/ML/86.html、
・・・列挙しながら思ったけど、ワシのメルマガ・・・ほんまにWingネタって多いよねぇ・・・)
一番困難な時に培った友情は一生モノと言うが、実際あの時の彼はどん底だった。
マスコミと言うのは血も涙もないもので、人生で一番どん底の人間を漫画にし、
BEYONDの残された3人のうち2人は成功してホクホク、
Wingだけは「ボク何やってもうまくいかないの」と涙顔と言う記事を見て、俺は
「出版社に火ぃつけたろか!」
と激怒したが、当の本人が黙ってそんな記事をスクラップにしてるのを見てやるせなかった。
人間あまりにも悲しいと怒りなんぞおきないのである。
そんな彼もBEYONDの活動再開を機に、北京に自分のマネージメントオフィス設立したり、
大陸発売のソロアルバムも発売、
(その中の1曲はまたワシがタダでアレンジし、北京ファンキーDrumスタジオの記念すべき初レコーディングとなった。しかもタダで・・・)
そしてその発売を機に、
「一気に全中国ツアーを組むぞ!」
と言う大きな試みの皮切りとして今回のこの北京コンサートを自力で開催した。
音楽総監督はWing自身、
バックメンバーには北京から俺、日本から団長を呼んで、後は香港のミュージシャン。
香港で1週間リハーサルを終えて全員で北京に乗り込んで来た。
香港でのリハーサル風景
会場は北京展覧会劇場と言う2000人の小屋。
しかもそこを2DAYSと言うから彼の知名度からすると無謀とも言える。
知名度と言うなら彼の知名度はさすがに中国人なら知らない人はいないが、
それはやはりBEYONDと言うバンドの知名度であって、
例えて言うとサザンオールスターズのドラマーとか、爆風スランプのドラマーが(あ、俺か・・・)、自分名義のコンサートを渋谷公会堂で2DAYSと言うとやはりちょっと難しいんでは・・・と言うのと似ている。
ましてやそのドラマーがスティックではなくギターを持って、
ドラムを叩くのではなく歌を歌おうと言うんだから、
これが爆風スランプのドラマーだったら客は絶対に来ない!!(断言!!)
XYZのライブとかだと、いつも出番前は
「今日は客どのくらい入ってるかなぁ・・・」
とそれが一番気になることだったりするが、
俺にしてみたらいわゆるバックバンドのお仕事なのに、
開演前には客の入りを気にしてそわそわ・・・これも一種の性であろうか・・・
前日のゲネプロでは音響のスタッフに
「お前、このマイクの立て方でドラムの音がちゃんと拾えると思ってんのか!」
とどやしつけたりしている。
「子供のコーラス隊を出すタイミングが違う!」
と舞台監督に何度もやり直しを要求したりしている。
そう、俺にとってこのコンサートは、既にいちバックバンドのメンバーではない。
かけがえのない友人の将来がこの1本で決まってしまうのだ。
ドラマーにもなるし舞台監督にもなるし、音楽総監督の補佐にもなる。
初日の入りは半分ぐらい。
気落ちしないように開演前に彼に活を入れる。
始まってみると、ギターとベースの音が出ない。
音響が最悪で始終ハウリングを起こしている。
ゲストの演奏の時に舞台を降りて衣装換えしている彼を元気付ける。
「ロックはハートでやるもんだ!何があっても気落ちするな!俺がついてる!」
Wingのたっての希望でドラムソロをぶっ叩く。
当初は2人でソロの掛け合いをしようと言う企画だったが俺が却下した。
「お前はスターなんだから、俺の後でゆうゆうと登場してゆっくりソロ叩けばいいんだよ!」
彼は全アジアで一番有名なドラマーと言っても過言ではない。
知り合ういろんなドラマーが、
「葉世榮がいなければ俺はスティックなんて持ってなかった」
と言うのをいやと言うほど聞いた。
言わばアジアのリンゴ・スターなのである。
ソロの内容なんかどうでもいい。
彼がドラムを叩きさえすればそれでいいのである。
俺はテクニックの限りを尽くして客を暖めておく。
それが俺に出来る最高の演出である。
俺のソロの最後にバスドラを踏みながら舞台中央を指差すと、
そこからWingがドラムソロを叩きながらせり上がって来る。
会場は興奮のるつぼである。
ドラムソロが終わると、次の曲はAMANI。
「AMANI NAKUPENDA NAKUPENDA WE WE(平和,愛,僕達に勇気を)」
この曲はBEYONDが売れてお茶の間のアイドルとして大全盛の時、
アフリカに行って戦争で焼け出された子供たちのために作った歌である。
「戦争の陰でいつも傷付くのは、何の力もない子供達」
と歌うこの曲は、瞬く間に香港のヒットチャートを総なめにし、
アジア中に彼らのメッセージが響き渡った。
BEYONDが偉大だったのは、アイドルバンドとして売れ続けながら、
アフリカの言葉で歌うこんな曲をヒットチャートに乗せることが出来たと言うことであろう。
俺がこの曲を初めて聞いたのは、お恥ずかしながらコマが死んだ後である。
あれだけ毎日一緒に酒を飲みながら、俺は彼らの偉大さを全然知らなかった。
彼が死んでから香港に行き、
Wingと待ち合わせたコーズウェイベイの回転寿司で偶然この曲がかかっていた。
MTVには字幕が流れており、そこでこの歌詞の内容を初めて知った。
サビで「僕は歌い続ける!」と言う歌詞の部分がとてつもなく悲しくて寿司食いながらわんわん泣いた。
コマが歌い続けることが出来なくなったんだから俺が歌い続ける!
と、その後この曲を日本語訳にして夜総会バンドのレパートリーとしたが、
当の歌う本人であるボーカルのaminがこの曲を歌い続けるかと言うとそれはまた無理な話である。
そんな空回りの中バンドは解散し、歌を歌えない俺はこの曲を歌い続けることが出来なくなった。
ところが当の本人、Wingがこの曲を歌い続けている。
アンコール最後の曲は、またBEYONDの大ヒット曲「光輝歳月」。
差別と戦って神に召された黒人のことを歌った歌である。
「虹が美しいのはその色と色との間に区別がないからである」
と歌ったコマはもう神に召された。
しかしWingがそれを歌い続け、そして客がそれを大合唱する。
ボーカリストが亡くなって、そのドラマーがその歌を歌い続ける。
その後ろでドラムを叩くのが俺である。
あの日、新大久保のSOMEDAYのJamセッションを見に来たコマが俺にこう言った。
「素晴らしい!お前のドラムは最高だ!来月も、またその次も俺は毎回見に来るぞ!」
そしてその言葉が俺と交わした最後の言葉となった。
それ以来Jazzのセッションをする度に、どこかで彼がまたあの嬉しそうな顔をして俺を見ているような気がしている。
あの真っ白な世界の扉を開けたら、そこにビール片手に彼がいるような気がしている。
同じバンドのメンバーが歌手となって初の大舞台。
彼はまたいつもの笑顔でそれを見ていたことだろう。
どうだったかい?ふたりのドラムソロはよかったかい?
これを皮切りにWingは全中国ツアーを切るつもりらしい。
いつの日かあの扉が開いて彼と会える日が来るかも知れない。
ファンキー末吉
ネットで流れているライブの模様
http://ent.sina.com.cn/y/v/2006-06-14/17151122734.html音が悪い・・・
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2006年6月11日
西部来たりて酔い潰れ
岡崎はんが北京から帰国する飛行機とちょうど入れ違いの東京からの飛行機で団長が北京でトランジェット。
いわゆる五星旗歴代ギタリストが空中すれ違い、今度はその団長を連れてそのまま香港へ。
WINGのリハーサルのためである。
5日間のリハーサルを終え、昨日の正午やっと北京に帰って来た。
ちょうど日本からは元ファンキーコーポレーション幹部、西部嬢がやって来てたので、
貧民街のうちの院子にご招待。
西部嬢は「喋らなければ美人」と誰もが言うが、ルックスとはうらはらに性格はもろ「オッサン」である。
趣味は「晩酌」。しかし時には昼から晩酌。
結婚前は缶ビール片手に公園で酔い潰れ、結婚後も毎日酔い潰れてソファーで寝ているらしい。
団長とは久しぶりと言うことで、村のレストランで昼から1杯2元(約30円)の生ビールで乾杯。
だがワシはうちのスタジオで1曲ドラムのレコーディングがあるので飲まず。
若いうちはベロンベロンでもドラムを叩いていたが、年をとったのかもしくは音楽に対する欲求が高くなったのか今は叩く前は絶対に飲まない。
しかしヤツらは飲む飲む。。。
ワシが仕事してる横で中庭とも言える院子で飲む飲む。。。
そしてワシが1曲叩き終わった頃には西部は潰れていた。
うちの院子は貧民街にあるので夏はやはり蝿、蚊はかなり多い。
蝿もやはり美人が好きなのか西部にたかるたかる・・・
気にせず大いびきで寝続ける西部。
夕方頃には起きてどこへとなく帰って行った。
今頃は恐らく飛行機の中。愛するカナダ人の夫の待つ日本に帰っていってる頃である。
恐るべき来客であった。
14日には大村はんがやって来る。
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2006年6月 2日
岡崎はんの北京の1日その2
岡崎はんの北京滞在もあと残すところ3日となった。
別に帰ったって何があるわけでもないんやからおればええのに、
そう言うところだけは相変わらず意固地な岡崎はんである。
関西空港で3万円を人民元に両替し、(約2000元)
まあ2000元あればこの村では数ヶ月暮らせるので、
滞在1週間を過ぎてから「俺が払うわ」と一生懸命使おうとしているのだが全然減らん。
残すところ3日であと700元使い切りたいと言うので、村の若い衆連れて羊肉串を食いに来た。
路上でがんがん食うのが北京式である。
100本頼んだのじゃが、1本が5角(約7円)なのでやっぱ全然減らん。
ビールもここでは大瓶1本1.5元(約20円)なので何本飲んでも全然減らん。
結局支払いは93元(約1400円)。
一人頭で勘定すると200円いかない。
日本やったらビールも1本飲めんし、焼き鳥も1本しか食えんぞ・・・
「こんなに金使わん海外旅行は初めてじゃ・・・」
と岡崎はん。
日本に帰国して社会復帰出来るのか。。。
(もともと社会復帰してないか・・・)