
2001年6月16日
北京で黒豹のライブに遭遇
北京に来ている。
いや、帰って来ていると言うべきか・・・実は全然実感がない。
まあ当分は行ったり来たりだし・・・
今月で東京は宿無しとなる俺だが、北京にとて別に宿があるわけではない。
Jazz屋の安田や友人宅を転々としていればそれでよい。
子供たちがいる嫁の実家は北京市内から車で1時間と遠く、
そこに帰るには車をチャーターして、ちょっとした小旅行なのである。
いやしかし安いと思ってた北京の物価も、年ごと日ごとに高くなって来ている。
医療費は無料のはずの共産主義は崩壊し、
中国的特色の社会主義では全額が本人負担である。
ヘタしたら日本よりはるかに高い。
小学校の入学金が3万元(約50万円)と言うからキチガイ沙汰である。
普通の人民はどうやって生活しているのだろう・・・
またうちの子供の国籍は日本なので、外国人はよけいに高いのね・・・
ちなみに嫁の実家、燕山と言う街では唯一の外国人がうちの子供である。
嫁も国籍が日本となったので、いきなりここでは住みにくい。
外国人には何もかも高い国なのよ、ここは・・・
そんな外国人や、
日本人の人口より恐らく多いであろう日本人より金持ちの人達相手
に商売しているのがここJazz-ya。
北京No.1のバーに選ばれ、日本料理屋の飯屋、寿司バーのSushi-ya、
そして焼肉屋の肉屋、とどんどん増殖している。
値段も日本とほぼ変わらないのに連日大繁盛である。
これを支えているのが安い労働力。
田舎から出てきた従業員の給料では
俺のように連日ここで酔いつぶれることは夢また夢である。
白い猫でも黒い猫でも鼠を取る猫がいい猫だ!
豊かになれる者から先に豊かになりなさい!
と言うこの国は、中国的特色の社会主義と言う名の資本主義。
日本は資本主義と言う名の理想の共産主義。
1億総中流など、世の思想家達が夢に見た理想の共産主義国家なのである。
でもなんで俺はまたこんな街でいるんだろう・・・
昨日、CDカフェと言う小さなJazzクラブで、黒豹のライブがあった。
精神汚染音楽だった当時の北京で、
アンダーグランドな活動を余儀なくされていた彼らも、
今はスタジアムを満パイにし、大金持ちになって太って、
「自分の商売が忙しくてバンドなんてやってらんない」
と言う状況である。
ドラムの趙明義は株を買ったか何かで今やCDカフェのオーナーである。
外国人が唯一Jazzのライブが見られたこの店も、
中央電視台のイベントやらロックバンドやら、
無節操にオーナーがブッキングするもんだからとんと客離れと言う噂である。
「おい、たまには集まって音でも出そうぜ!」
・・・てなことでこの日はメンバーが気楽に集まったのか・・・
いや「中国人はあんたと違うんだから」と言う嫁の声が聞こえそうである、
生力ビールの思いっきりのタイアップ・・・金の匂いがぷんぷん・・・
何から何まで生力ビールの店内には客がまばら・・・
オープニングアクトの若いバンドの演奏が始まる。
確実に数年前の北京のバンドよりはるかに上手い!
サウンドも完成されていてケチのつけどころがない。
「みんな上手くなったよなあ・・・」
何やらつい感心してしまう。
俺が初めて地下クラブで黒豹を見た時、
奴らはお世辞にも上手いとは言えなかった。
しかし俺はそれを見て、今ここにいる。
あの日を境に俺はここ北京にいつも・・・いる・・・
オープニングアクトの演奏が終わり、黒豹が始まる頃には客席はほぼ満パイ。
しかしあの日とどこかが違う。
あの日、パンクスに連れて行かれたあの地下クラブにはもっと・・・
危険な空気・・・ヤバイぞ、ここは・・・と言うのがあった。
ここはすこぶる健全である。外の世界と変わらないのである。
演奏が始まる。
彼らの曲は老歌と新歌とに大きく分けられる。
老歌は昔のヒット曲。新歌はメンバーチェンジをし、今の黒豹のナンバーである。
ステージは老歌から始まった。
「這是新的中国!(これが新しい中国かい!)」
こんな歌詞を歌詞カードから見つけて鳥肌が立った彼らの1枚目の曲。
今では彼らこそがそんな「この新しい中国」の代名詞である。
ひとり客席で俺は当時、初めて彼らを見た時にトリップしていた。
ここには秦勇ではなくドウ・ウェイがいて、そしてあそこにはルアン・シューがいた。
リー・トンの髪の毛も当時の中国では街にはまず見かけなかった長髪だった。
お世辞にも上手いとは言えないその演奏・・・
感心はしないが、しこたま感動した・・・
そんな当時の彼らを、今の彼らを通して見て感動している・・・
今の黒豹は言ってみれば
ロジャー・ウォータースの抜けた後のピンクフロイドのようなもんである。
それを見に来てノスタルジーで感激している俺は、
再結成ラウドネスを見て涙している最前列のファンと同じか・・・
でもラウドネスに青春を捧げて婚期を逃したファンはいても、
俺ほど人生を踏み外した人間はいるまい・・・
3月まででやめようと思ってた二井原も、
最前列で涙流してるファンを見てもう半年続けようと思ったと言うが、
最前列で40過ぎの日本人ドラマーに涙しながら見られてても
そりゃ黒豹も演奏しづらいじゃろ・・・
老歌なんぞ演られた日にゃあ、俺はすぐにあの場にトリップしてしまう。
「この曲もあの日に聞いた。この曲もあの日に聞いた。
そしてこの曲はあの日に叩いたじゃないか・・・」
11年前の思い出が走馬灯のように思い起こされる。
老歌はもちろんのこと新歌も懐かしい。
唐朝のベーシスト、ジャン・ジュィーに宛てた追悼曲・・・
友達が死ぬなんて一生のうちに何回あるだろう。
この30代で俺はふたりのミュージシャンの友人を亡くしている。
思えば俺の30代はかなりドラマチックである・・・
俺の30代、俺の中国はヤツらによって始まって、
そして今もヤツらと一緒に・・・いる・・・
黒豹がどんなに肥え太って、商業主義の権化となって、
どんな無様な姿を晒そうとも、俺はいつもヤツらと一緒に・・・いる・・・
俺は最後までヤツらと一緒にいて、
黒豹の、いや俺の人生を変えた中国ロックの最後をこの目で見届けたい。
そんなことを考えながら、今から来週日本に帰るチケットのリコンファームをする。
ファンキー末吉
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2001年6月11日
晴れて宿無しになった。宿無し時代の思い出・・・
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イビキの手術は無事成功!
でも人と一緒に寝てないのでイビキが治っているかどうかはまだ未定!
誰か一緒に寝てくれる人募集!
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退院して痩せました。
そりゃそーじゃ。痛くてモノがノドを通らんかった・・・
昨日、引越しも無事終了し、退院後初めて酒を飲んだ。
HPやメルマガで募集して集まった人14名。
みんなで一日作業して、そのまま銭湯にザブン!
いやー・・・気持ちいいねえ・・・
その後ビールを我慢できるほどワシは精神力が強くはない。
まだノドにしみようが、傷を悪化させようが、
そのまま全員でJazz屋に行って乾杯!
いやー・・・久々の酒はうまい!
嫁と子供も昨日の飛行機で無事に北京に帰り、
あとは部屋の賃貸しの手続きをやってしまえば、それでおしまい。
俺の日本での住家は晴れて「ナシ」と言うことになる。
憧れの宿無し生活である。
以下は三井はんと大村はんの2ndに入れようとしている。
「デビット・リンドレー」の「RAG BAG」と言うブルースの日本語詞。
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RAG BAG(ボロボロ紙袋)
Huuu… Huuu…
俺が立ってる 道端が寝ぐら
泥水だらけの 道端が寝ぐら
この狭いドブで 寝るのが最高
風呂に入らない ヒゲ剃らない
何の心配もしなくていい
その日暮らしの 野良猫みたいさ
Huuu… Huuu…
街の灯りが 点っては消える
今夜も明日も またその次の日も
働きづくめの 誰もが叫びたいのさ
会社サボりたい! 嫁いらない!
子供なんかは とんでもない!
その日暮らしの 野良猫みたいに
Huuu… Huuu…
<間奏>
住所もなければ かける電話もない
手紙も出さなきゃ FAXもいらない
ただ鼻をかむ場所さえあれば幸せ
そこが俺の 楽しい我家
たとえ狭くても 住み慣れた場所
本当は誰もが ここに憧れてる
金も欲しくない 見栄もない
流行りのモノなど 関心ない
俺の暮らしは ボロボロ紙袋
Huuu… Huuu…
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いやー・・・夢のような暮らしですなあ・・・
Faxいらんでもインターネットには繋げにゃあ死んでしまうが・・・
小さい頃からお金持ちの家庭に育った俺。
ヒッピー文化、ウッドストック、学生運動、等は、
四国の片田舎に住む俺のところには、もう過ぎ去ったノスタルジーとして入って来た。
リアルタイムで経験してないから、一生の憧れである。
初恋の人に振られ、
傷心のまま東京にスネアとカセットデンスケ
(当時はウォークマンはまだない)
だけを持って家出。
ちなみにパンツとか着替えとかは、スネアのネジを外して太鼓の中に畳んで入れる。
家がないので友達のところに転がり込むが、
そこは同居人を認めないところで、すぐに追い出される。
早稲田の音楽サークルに潜り込み、
毎日誰かと酒を飲んで仲良くなって、その日はそいつのところに泊まりに行く。
誰か友達を作らないと寝ぐらがないんだから必死である。
金がなくなると、高田馬場の公園に始発で行って、
通称「立ちんぼ」と言う日雇い労働のアルバイトをやって日銭をもらう。
1日働いて6000円・・・
そのまま銭湯に行って、また居酒屋に行って酒を飲む。
音楽談義等をしながら友達を作って、そこに泊まりに行く・・・
俺は浮浪者に憧れていた。
ヒッピーを原体験したことがない俺は、
何となく憧れで、浮浪者達を「自由の象徴」みたいに幻想してたのね。
ある日、振られたはずの彼女が東京に遊びに来ると言うので、
「金を溜めよう!」
と「飯場」に入ることを決意。
まあ日雇い労働の10日間契約みたいなもんである。
バラックに投宿して、メシもつくので、
10日間勤め上げればそれらを差引かれても数万円残る。
でも俺は夜な夜な飯場を抜け出し、
高田馬場の居酒屋で飲んでは仲良くなって泊まり、
始発で飯場に帰ると言う生活をしていた。
もったいない!っつねん。
そんな中で、ある光景を目撃した。
一緒に働いてるオッサンが、現場監督に一生懸命取り入って、
何とか自分を楽な現場にまわしてもらおうとする姿だった。
幻滅した・・・と言うより目が覚めた。
ああ、この人達も、俺が嫌いだと思って飛び出した世界の人たちも、
みんな実はおんなじなんだなあ・・・
それ以来、ぱたっと日雇い生活にピリオドを打った。
いやー・・・でも、楽しかったなあ・・・
爆風がデビューしてしばらくして、
「あの頃の方が楽しかったなあ・・・」
と思う日が来た。
まあ、一段落した時に人間がよく思う心境である。
そのまま何となく成功してゆき、ある日中国のロックバンドと出会う。
「精神汚染音楽」とされていた当時のロックをやる若者達。
金もなければ家もない。ついでに仕事もあるわきゃない。
友達のところを転々としながら、メシを食わせてもらい、酒を飲む。
「もうぼちぼち出てってくんないかなあ」
と思われそうな頃を見計らって、次の友達のところに転がり込む。
またそこでメシを食わせてもらい、酒を飲む。
また頃合を見計らってまた次の友達のところに転がり込む。
そして友達を一巡して、最初の友達のところに戻って来た頃には、
「いやー、久しぶりだなあ、飲め、食え」
・・・とそれを延々繰り返すわけである。
「俺は中国人になる!」
と言わせるのに十分な世界だった。
その後、数限りなく北京に通ったが、
ホテルなんかとらずとも友達が山ほどいるので、
寝るに関しても食うに関しても困ったことはない。
そんな友達たちも今ではみんな偉くなって、
最近は北京に行って電話しても、みんな忙しくて誰も遊んでくれない。
これも時代の流れか・・・
当分は北京と日本の二重生活をすることになる俺だが・・・
もうある意味「ちゃんとしてしまった」北京より、
宿無しとなった日本の生活の方が楽しいかも知れない・・・
7月には1ヶ月間レコーディングスタジオを借り切った。
未唯さんプロデュースのROCOCOの2ndを録らなければならないからだが、
それだけでスタジオ代が払えるほど予算はない。
「よし、新生五星旗のレコーディングも一緒にしてしまえ!」
「よし、それだったらその1ヶ月に他の録れるアイテムも全部録っちゃれ!」
エンジニアをふたり用意し、12時間交代で24時間体制でレコーディングする。
何アイテム録れるだろう・・・
もちろんアイテム数が増えれば増えるほど各原盤製作費は安くつくと言うわけである。
俺は人が作業している間、スタジオで寝てればいい。
どうせ家はないのである。
楽しそうじゃのう・・・
ファンキー末吉