
2013年10月12日
Fチョッパーkoga10周年記念ライブ
誘われたので行って来た・・・
いや〜相変わらずkogaちゃん凄いな・・・
よくあれだけ頭振って踊ってチョッパー弾けるもんじゃ・・・
もともとガチャピンのことを知ったのは、
中国のTwitter「微博(WeiBo)」でkogaちゃんの教則ビデオの映像が廻って来たからである。
「中国人のレベルもここまで来たか・・・」
と驚いて日本のTwitterで廻したら、
「これは日本人ですよ」と熱心なファンがガチャピンのことを教えてくれた(笑)
北朝鮮に行く時に、ベースのペコちゃんにチョッパーを教えようと、
この教則DVDを持って行ったのだが、
「外国のものを生徒に見せるのは困ります!!」と言われ、
仕方ないので夜にはホテルでこのDVDを見て自分で奏法を覚え、翌日それをペコちゃんに教えるしかなかった。
毎晩毎晩一緒にいたのでもう他人ではないような感覚になってしまってたが(笑)
さすがに本物を見た時には少々緊張したな・・・
Live Bar X.Y.Z.→AのオーナーであるKさんがガチャピンの大ファンで、
ワシの上海ライブにガチャピンをねじ込んでブッキングしたのだ。
いや〜彼女たちのパフォーマンスには中国人も度肝を抜かれたな・・・
しかしワシと小畑はそのステージを袖から見てたので、
別の意味で二人で顔を見合わせてしまった。
「こいつら・・・戦士じゃ・・・」
前に向かって笑顔を振りまきながら後ろに向いた時に吐きそうな表情を見せる。
彼女たちは文字通り前に向かって「戦って」いるのである。
その時の彼女たちのスケジュール、
前の日まで日本で数日連続でライブをやっていて、
朝5時起きとかで上海にやって来てそのままライブ、
次の日はまた5時起きで北京に飛ぶのぢゃが、
それなのにちゃんと打ち上げに参加して、
打ち上げが始まると各メンバーが各テーブルに飛んで笑顔を振りまく。
「こりゃそのうち必ずブレイクするわ・・・」
ワシは自分の昔の生活を思い出して少々いたたまれなくなった。
数多くのブレイクしたバンド達は影で必ずこのような努力をしている。
ワシの場合は当時の事務所の社長から徹底的に叩き込まれたのであるが、
彼女たちを見ると、同行したマネージャーも事務所の社長もそのような素振りはない。
きっとkogaちゃんがグラビアアイドルだった頃から培ったものなのであろう・・・
苦労しとるな・・・
そんなこんなでワシはあれからもう「戦友」という感覚になってしまい、
名古屋でフェロモンオールスターズと同じellで一緒になった時もメシには誘わなかった。
行ったらまた彼女たちはワシのところに来て気を使うのだ。
「戦士よ、今日も戦ったのだ。ゆっくり休め!!」
そう言いたい。
彼女たちのブレイクを心から祈っているぞよ。
さて話は戻ってこの日の10周年記念ライブ。
小娘(笑)がベースを弾き始めてたかだか10年と言ってもなかなか歴史があるのな・・・
昔やってたユニットの曲などをやった時にはとあるエピソードを思い出した。
先日上海での打ち上げの席で、ワシのテーブルに来てくれたはなちゃんが言ってくれたのだが、
そのユニットでデビューが決まってたkogaちゃんが、事務所の
「欲しいのはお前らのルックスだけなんだからベースもはじかなくていいし、音楽もこっちで全部作るからあてぶりだけしとけ!!」
という方針に反発してデビューを蹴ってガチャピンを結成したというエピソードである。
そう言えばワシが個人活動で所属事務所ともめた時、
「我が社がビジネスをしたいのは爆風スランプの末吉くんであって、末吉くんの個人活動には一切興味がない」
と日本を代表する音楽事務所のトップからそうはっきり宣言されたことも思い出したなぁ・・・(笑)
小娘(笑)の10周年記念ライブを見ながら
「ワシも何かやろうかな・・・」
とまたふつふつと悪い虫が頭をもたげて来た・・・
「ドラムを始めてから」と言うならワシは15歳で始めたから来年で40周年である!!(凄っ)
デビューしてからと言うと30周年だし、
X.Y.Z.→A結成からと言うと15周年である。
来年の7月13日で55歳になるし、キリもいいので何かやりたいな・・・
55歳になった瞬間から55日連続ライブとか・・・(笑)
また55本連続ツアーと言うと一緒に廻ってくれる人がいなくなるので、
とりあえず相手を換えればいいのだ。
来年の7月13日は都合のいいことに日曜日だから、
また北京でマラソンライブでもやって、
翌日14日には朝いちで帰国して店でライブ、
飛行機がまた遅れるかも知れんので、
とりあえずこの日はリハが要らないJazzトリオぐらいにしといて、
次の日は爆風銃ぐらいから始めて53本ツアーを廻る・・・
さすがに王様も英樹も全部は付き合ってくれんやろうから、
途中X.Y.Z.→Aのツアーとも合流し、
和佐田のツアーも入れ込んでとにかく自分だけは55本連続ライブ出来たらええんとちゃうか・・・
よし!!ユニット数を増やすべく、あと半年間はもっといろいろセッションしよう!!
Posted by ファンキー末吉 at:07:12 | 固定リンク
2013年10月 6日
マキシムレストラン
天安門広場を中心に広がる北京市内の中でも、
だいたいの音楽の仕事はその東北の方向にある朝陽区がほとんどなので、
市内の南の方に行く機会はほとんどない。
ところが昨日、北京ダックを食いに久しぶりに北京駅南部を通ったら・・・
おおっ!!マキシムレストラン!!!!こんなところにあったのか・・・
1990年、最初に北京に行った時、
最終日に知り合った不良どもの連れて行かれて初めて中国ロックと遭遇したのがここである。
タクシーに乗せられた時は身の危険を感じてとてつもなく長く感じたのだが、
実際はこんな近くにあったのだ・・・
仲良くなったホテルのボーイは
「奴らは不良だ。危険だから行ってはならない」
と泣いて止めるし、ワシはワシで仲間に
「ライブは朝の4時までだと言うから、5時に帰らなかったら大使館に連絡してくれ」
と、全くあの頃の中国ではロックを見るのも命がけだった。
実際その不良どもに連れられてこのマキシムの階段を上がる時には足が震えたし、
運良く黎明期の黒豹のライブを見た時には逆に興奮で身体中が震えた。
その翌月、奇しくも天安門事件の1年後である6月4日、
彼らの天津体育館のライブでドラムを叩いた時は、
「ファンキー、会場に着いたら絶対に口をきくな。外国人だとバレたらどんな目に遭うやらわからない」
と強く念を押されていたので、この時も「死」を覚悟した。
ドラムソロをぶっ叩いて、
割れんばかりの大歓声と裏腹に誰も立ち上がらず座ったままだったのは、
当時は立ち上がったら逮捕されるのだと聞いて後から足が震えた。
数年後、北京工人体育館にてラジオ局の開局イベントに爆風スランプが出演。
中止命令を無視して演奏を続行!!
2万人の観客の目の前のPA席で、
出音を消そうとする公安が、それを阻止しようとするワシの友人の中国人スタッフをボコボコに殴り、当時はロックの象徴であった彼の長髪を鷲掴みにして引きずり回すのをドラムを叩きながら見ていた。
音の出ないマイクと生音のアンプとドラムの音だけで演奏を終えたワシたちは別室に連れて行かれ、
心配してやって来たその友人の仲間が、ボコボコにされて恐怖に震える友人の長髪にひざまずいてキスをした。
「お前達は外国人だからいい。俺は中国人なんだ。絶対ヤツらに殺される!!」
そう言ってブルブル震えている彼の肩を抱きながら、
「こいつを殺したら俺はトラックでも盗んで中南海に突っ込んでやる!!」
と心に決めた。
この国でロックをやるのは文字通り「命がけ」だったのだ・・・
時は流れ、ロックブームが到来し、
当時ヤツらが「ファッキンガバメント」と呼んでいた中国政府は、
「ロックは金になる」とばかり相反するふたつの勢力は裏で手を結んだとばかり、
今では反政府的な歌を歌わない限り自由にロックをやることが出来るようになった。
若者は流行りのファッションを着替えるように、
テクノが流行ればハードロックの洋服を脱ぎ捨ててそれを着るように、
中国のロックも時代と共にめまぐるしく様変わりをした。
あの時かけた「命」は一体何だったんだろう・・・
中国でドラムを叩く時にいつもそんなことを考える・・・
「どう生きるか」は「どう死ぬか」と考えた方が結論が簡単だからという単純な理由でそこに向かって突っ走っていただけかも知れない。
ドラムを叩く時は「これが最後の演奏になる」と覚悟する。
実際に何度も「死」を覚悟したのだ、簡単な話である・・・
北朝鮮に行ってロックをやるなんてワシにとったら危険でも何でもない。
あの頃にヤツらと一緒に中国ロックの黎明期を作り上げるのは文字通り本当に「命がけ」だったのだ。
全中国ドラムクリニックツアーで、
子供達が課題曲としてメタリカを叩くのを見て不思議な気分になる。
あの頃ロックを聞いて拳を振り上げてた若者が大人になって、
田舎に帰ってドラム教室の先生になり、
あの頃に聞いてたロックを子供達の課題曲に指定し、
なに不自由無く育った子供達はそれをそのまま受け入れて演奏する。
平和になった・・・と言えないこともない・・・
それは決してロックの先人たちが命をかけて今の社会を作ったのではなく、
単に「時代が移り変わった」だけなのかも知れないが、
兎にも角にもあの頃には絶対に想像だに出来なかった世の中に今はなった。
北朝鮮だっていつかはそうなるんだと信じても何ら不自然ではない。
平和だ・・・
小畑秀光が路上で歌っているのを見てまたそんなことを考えた・・・