
2006年5月31日
岡崎はんの北京の一日
克爾曼(KAHRIMAN)のレコーディングも終わり、
ネットを介してやりとりする(先進的やなぁ・・・)香港のレコーディングも終わり、
採用されたら2万元くれると言う北京オリンピックテーマソングの応募曲のレコーディングも終わり、
(中野が是非中国語で歌いたいと言うので一応Runnner中国語版も作って応募してみた)
後は岡崎はんに付き合って観光あるのみである。
夕べは日本のぴあの偉い人が北京に来てて、
中国語版ぴあの見本版を見て意見を聞きたいと言うのでしこたまただ酒を飲み、
二日酔いのまま朝早く起きて故宮に向かった。
岡崎はんの趣味はウォーキング(もう既に老人の域)。
村に来てもひとりで1時間2時間平気で散歩をするので半日以上かかる故宮の観光も平気である。
景山公園の方から入って天安門まで抜けた頃にはワシはヘトヘトじゃが彼は平気。
昼は是非北京ダックをと言うことで、口コミで聞いた美味しい店と言うのがここ。
前門にある利群北京ダック店。
紹介してくれた友人は「前門で輪タク乗ったら連れてってくれる」と言う話だったが、
値段が観光客料金で30元とべら高なので歩いて行った。
老人の散歩が趣味の岡崎はんは平気じゃが、ワシと嫁は既にへろへろ。
夜には新疆ウィグルレストラン阿凡提(A Fun Ti)に行った。
昨日、実は岡崎はんの好みの女性は新疆ウィグル族の女性ではないかと思っていたら、
やはり舞台で踊るウィグルダンサーに釘付け。
蛇を身体に巻きつけて踊るパフォーマンスに釘付け。
かなりご満悦でワシとしても非常に嬉しかったのだが、さすがに嫁がダウン・・・
次の店に行くのはやめて早々と院子に帰って来た今宵でした。
岡崎はん帰国まであと3日。
嫁の体力は持つのか?そしてワシの体力は・・・
そして大阪から1本のメール。
「楽しそうやなぁ・・・ワシも北京行こうかな・・・6月の半ばか末頃って大丈夫?・・・」
大村はんである。
歓迎!歓迎!
みんないっそのこと北京で住みなはれ!
Posted by ファンキー末吉 at:23:32 | 固定リンク
2006年5月30日
ウィグル族の仲間たち
どうも最近新疆ウィグル自治区の人たちと縁があるようだ。
新疆ウィグル自治区は、北京から直線距離にしておよそ2,400 km。
もちろん日本に帰るより遠いのにやっぱ中国の中のいち地方である。
この前行って来たシルクロードの起点と言われる西安から更に西に進み、
井上靖の小説や映画でも有名な敦煌よりも更に西に進み、
いわゆるシルクロードの中国最西端である。
最近ではJazz-yaライブに時々参加してパーカッションとボーカルを担当する
阿布都(A Bu Du)が新疆ウィグル族と言うことで、
彼のバンドの連中(ひとりを除いて全員ウィグル族)と仲良くなったり、
まあ中国と言えば友達になれば何でも助け合わねばならないのが常で、
お金にもならないのに彼らに楽曲をプレゼントしたり、
日本語の詞をそれにつけてくれと頼まれて徹夜して考えたり、
今では「ご近所の苦情で自宅で練習出来なくなった」と言うことでうちに来てよく練習している。
阿布都(A Bu Du)は新疆ウィグル地区でもかなり田舎の方の出身らしく、
貧しくて、小さい頃から民族打楽器を叩いたり歌を歌ったりして家族を助けていたと言う彼の歌は
Jazz-yaライブのリハーサルの時に従業員が涙したと言うほどである。
最近うちの院子に部屋を間借りし、週末には別荘代わりに泊まりに来る吉野嬢も彼らの音楽にはめろめろである。
もともとワシと新疆ウィグルとの縁と言うのは阿凡提(A Fan Ti)と言う新疆ウィグルレストラン
によく行ってたのがきっかけだったのではあるまいか。
羊肉を食い、新疆ワインを飲み、酔っ払ってステージに上がってそこで演奏していた阿凡提(A Fan Ti)と言うバンドに飛び入りしていたりしていた。
数年後にとあるライブハウスで演奏している新疆ウィグル人に
「よっ!久しぶり!」と声をかけられた。
全然覚えてなかったが、顔がぱっと見て中国人っぽくないので、きっと新疆ウィグル族だろうと思っていたら、やはりその阿凡提(A Fan Ti)でギターを弾いてた克爾曼(KAHRIMAN)である。
その時に交わした電話番号がきっかけで今、彼の新しいユニットの曲をレコーディングしている。
昨日は阿布都(A Bu Du)のバンドもリハーサルしに来てたりして、
うちはさしずめウィグル族の溜まり場である。
みんなワシに必ず「今度新疆ウィグル自治区に招待するから」と言う。
行ってみたいが北京から飛行機で4時間である・・・遠い・・・
ウルムチ出身の克爾曼(KAHRIMAN)はまだいいが、
阿布都(A Bu Du)の実家はそこから更に飛行機で1時間半かかると言う。
新疆ウィグル自治区、実は日本が20個すっぽり入ってしまうほどでかい・・・
レコーディングが終わり、克爾曼(KAHRIMAN)とそのユニットのボーカル(実は彼の奥さん)と一緒に記念撮影。
シャッターを押してもらった岡崎はんがしきりに
「全然中国人ぽくないけどあれでも中国人なんやなぁ・・・あんな美形で羨ましいよなぁ・・・ほんま・・・」
と1日中ずーっと言ってたので克爾曼(KAHRIMAN)のことかと思ってたら嫁さんの方やった・・・
惚れたな・・・岡崎はん・・・
Posted by ファンキー末吉 at:11:07 | 固定リンク
2006年5月29日
YangYang来たりて飲みまくる
前回来た時は、いきなり大酒をかっくらい下ネタ叫びまくり、
院子(ユエンズ:ファンキースタジオ兼住居のある北京の貧民街の一角にあるロックミュージシャンの集落。通称「ロック村」とも言う)の若い衆を捕まえては
「お前!可愛いから今日オレと一緒に寝ろ!」と部屋に連れ込もうとして逃げられ、
それを追いかけては夜通し酒瓶持って叫びまわり、
「怪獣」と言う呼び名をつけられたのはもう先々月のこと。
今回はかなりおとなしくなったとは言え、酒は昼間から飲むわ、寝てる時以外は基本的にずーっと喋ってるわ、とにかくこの怪獣の出すエネルギーには生身の人間は「当てられて」しまう。
2~3日嫁と共に相手して、既に疲れ切っていた頃やっと岡崎はんがやって来た。
その前日には嫁と共に王府井(WangFuJing:北京の銀座とも言うべき大ショッピングストリート)
で死ぬほど買い物をし、店員が泣き出すほど値切りに値切り、
「売らないならこのまま店の前で歌い続けるぞ」と脅し、
汗をかいたと言えば洋服を試着して汗を吸わせ、「要らない」と言って結局買わず、
夜は夜で阿凡提(A Fun Ti)と言う新疆ウィグル料理のパフォーマンスレストランで死ぬほど飲み、
ステージに上がって踊り、
「よし!明日はモンゴル料理だ!」
と言うことで空港に降り立ったばかりの岡崎はんを連れて蒙古人と言うモンゴルレストラン。
この店は民族衣装を着た歌手と馬頭琴奏者が来て歌を歌いながら白酒をついでくれる。
岡崎はんはもう飲めないほど飲んだが、YangYangは更に1本追加して余ったら持ち帰り。
その後もASKAと言う日本人スナックで飲み、歌い、
嫁は疲れ果てて寝込み、ワシは飲み過ぎで胃が痛み、岡崎はんは食い過ぎでぶくぶくと太ってしまった。
26日に布衣のライブに3曲参加し、27日にJazz-yaライブ、28日にやっと日本に帰って行った。
ワシらは1日間ゆっくり休み、一昨日の晩は友人のライブハウスが1周年と言うことで、
岡崎はんらとセッション。
ちょうど楽器フェアーのRolandのデモ演奏で北京に来ていた西脇さんも遊びに来て2曲ほどハーモニカ吹いていった。
Posted by ファンキー末吉 at:15:13 | 固定リンク
2006年5月22日
許魏(XuWei)5万人コンサートin西安
許魏(XuWei)と知り合ったのはもう10年以上も前。
当時彼は北京に来たばかりで貧乏で何もなく、
彼の部屋でビールを飲みながら後に彼のデビューアルバムとなる「在別処」のDEMOを聞いていた。
ロックとして非常に高く評価された彼の音楽だったのだが、
商業的に彼に大きな富をもたらしたかと言うとそうではなく、
その後生まれ故郷の西安に帰って何もしなかった時代もある。
復帰作「時光・慢歩」のレコーディングで久しぶりに再会し、
このアルバムがブレイクし、音楽を愛する全ての若者から神様のようにあがめられる存在となっても、
まあ彼の生活は大金持ちかと言うとそうでもないと人は言う。
そんな彼が生まれ故郷で初めて大きなソロコンサートをやると言うので、
この時からほぼ固定しているレコーディングメンバーがここ西安に集結した。
北京から西安は2時間足らず。北京から関空までが2時間半だからそんなに遠さは変わらない。
ホテルに着いたら目の前にでっかい看板が掲げられている。
数年前は同じこの場所で食うにも困ってた人間が、不思議と言えば不思議である。
何はともあれ、西安と言うと小吃が名物と聞く。
さっそく飛び込んだのが有名な羊肉泡鏌のお店。
泡鏌と言ってもそれが何なのか全然知らずに入ったので、
座ったらすぐ出てくるどんぶりと乾パンみたいのに驚かされる。
隣の人を観察するにこれを自分の手でちぎってどんぶりの中に入れるんだと言うことで見よう見まねでやってみる。
ちなみに小さければ小さいほどよいらしい・・・
しばらくしたら従業員がそれを取りに来てくれ、
羊肉のスープと春雨と一緒に煮て持って来てくれる。
自分でちゃんとちぎるのが本式らしいが、いかんせんちょっとめんどくさい・・・
会場に着いたらサウンドチェック。
ドラムセット等機材は全て北京から運んで来ている。
中国のバンドがなかなか全国ツアーが出来ないのはこの機材の運搬の問題も大きい。
バックバンドの場合、ドラマーの仕事の中に「テンポ出し」と言う大きな仕事がある。
曲のテンポを正確にメンバーにカウントするのだが、
そのためにドラマーの助手を用意して、彼が次の曲のテンポをリズムボックスで出してくれる。
通しリハの時に曲のテンポを間違えて、もっとゆっくりなはずなのに速いテンポの曲と間違えて出してたので取り合えず頭を張り飛ばしておいた。
零点(セロ・ポイント)の6万人コンサートの時は、「客が入るんだろうか・・・」とずーっと心配のままステージに上がったが、
今回は記者発表会だけで2万人集まったと言うからほぼ満席になることは間違いないと言われていたが、
始まってみるとさすがに人だらけである。
一番後ろの客なんかステージ上の歌手は米粒ぐらいしか見えんぞ・・・
しかし会場は隅から隅まで一体となって大盛り上がり。
個人的には小さなミスがあって少々残念なのだが、コンサートとしては大成功に終わったと言えよう。
頑張れ許魏(XuWei)!
ワシが中国で一番好きなアーティストである。
Posted by ファンキー末吉 at:17:04 | 固定リンク
2006年5月21日
週末のJazz-yaビュッフェ
Jazz-yaのグループ店としてオープンしたスープ・マート・カフェ。
そこで毎週末食べ放題のランチビュッフェが行われている。
ちょっと遅れて行くと満席で入れなかったりするので,我々のやり方としては、オープンした11時半に行き、4時のブッフェ終了までひたすら食い続ける。
もちろん朝飯も抜き、ヘタしたら前日の晩飯も抜いたりする。
寿司もあれば刺身もあるし、
ステーキ肉もその場で焼いてくれるし、
海鮮もその場で料理してくれる。
冬場はたらば蟹なんかもあって贅沢やったなぁ・・・
嫁と共に片っ端から料理に手をつける。
重田は貧乏舌で最初にスパゲティーとか主食に手を出すし、寿司も卵とか安いネタばかり狙うが、
ワシら夫婦は違う。まずは「値段」である。
98元も(と言っても日本円で言うと1500円いかないので激安と言えるのだが)払うんだから
もとを取らねばならんとばかり、とりあえずは味より食材の値段である。
安い食材には目もくれん!
(どっちが貧乏舌なんだか・・・)
そして不覚にも満腹になり、動けなくなってもしばらくして胃にスペースが出来るまでひたすら待つ。
そしてその時である。
嫁がすっくと立ち上がってケーキを取りに行く。
まだ食えるんかい!!!
しかもひとりでこれだけ・・・
女の胃袋恐るべしである・・・
Posted by ファンキー末吉 at:15:47 | 固定リンク
2006年5月20日
秦勇(QinYong)ライブ
中国を代表するロックバンド黒豹から、第3期ボーカリスト秦勇(QinYong)が脱退したと言うニュースを聞いたのはもう1年以上も前のこと。
もともと黒豹は第1期ボーカリストの竇唯(DouWei)があまりにも偉大であったため、
第2期ボーカリストの巒樹(LuanShu)や秦勇(QinYong)はいつもそれと比較され、苦難の道を強いられていた。
脱退前の秦勇(QinYong)と最後に会ったのは零点(ゼロ・ポイント)の6万人コンサートの打ち上げの時。
ぐでんぐでんに酔っ払った彼が、
「ファンキー、お前もきっと俺のことが嫌いなんだ。
竇唯(DouWei)の黒豹が好きだからな・・・」
とつぶやいていたのが印象的である。
竇唯(DouWei)は黒豹を脱退した後、
ある種天才の行き着く道と言うか、わけのわからない音楽をやり続け、
レコードはたくさん発売するのだが、
試しに聞いてみると、環境音楽みたいのが延々と続いて、結局最後まで1曲も歌を歌わなかったり、
不一定(決まってないよと言う意味)と言うバンドをやったりもしているのだが、このバンドがまた、
いつライブをやるのかも不一定、
やっても何を演奏するのかも不一定、
竇唯(DouWei)はドラムを叩いたりして、歌を歌うのかどうかも不一定。
最近ではメディアでの発言や、行動にも奇行が目立ち、
天才はやはり天才なんだなぁと思わざるを得ない・・・
一方、黒豹はと言えば、相変わらず竇唯(DouWei)時代の大ヒット曲を演奏して地方を回ると言う、
まあぱっとしない状態がずーっと続いていた。
バンドのマネージメントは、
「ドラマーの中では一番商売がうまい、商売人の中ではドラムが一番うまい」
と自負する趙明義が取り仕切っていて、
「竇唯(DouWei)が黒豹に戻って来てくれたら、また黒豹は昔のようにトップに返り咲くことが出来るぞ」
と言うことで実際に彼と交渉し、
そのまま秦勇(QinYong)をクビにしたのか、はたまた秦勇(QinYong)が自分で脱退したのか、
かくしてボーカルが竇唯(DouWei)に復帰して初のリハーサルが行われた。
「じゃあ久しぶりに昔の曲、やってみますか・・・」
と言うメンバーに対して竇唯(DouWei)が一言。
「俺、メロディーのある歌なんか歌わないよ!」
変人の極みである。
メンバー唖然・・・
「じゃあ何すんの?・・・」とばかりバンドはその場で崩壊。
今さら脱退した秦勇(QinYong)に戻って来てくれとも言えず、
新たにボーカリストを探して来て、相変わらず昔のヒット曲でメシを食っている。
かくして脱退後初めて秦勇(QinYong)と会ったのは何と街中の商店でのこと。
この広い北京(何と北京市の面積は日本の四国4県合わせたのと同じぐらい)の中で偶然再会するのも何かの縁であろう。
前回の愚痴のことも頭に残ってたし、
「次の活動、どうすんの?うちスタジオもあるし、何でも協力するから言ってね」
と言い残してから数ヵ月、
彼が参加する春節晩会(日本で言う紅白歌合戦。しかし今回のは地方版)
で歌う曲をアレンジしたりレコーディングしたり、
いやそれにしても彼のレコーディングはビールの消費量が凄まじい。
初日はみんなでビールを1ケース空けてしまい、
2日目は2ケース買って来といたが、それも空いてしまった。
そんな話は余談として、そんな交流の中から、
「兄貴の店で今度ライブがあるんだけどドラム叩いてくんない?」
と電話が来た。
彼のお兄さん、秦奇(QinQi)
は北京ロックの黎明期からのギタリストで、
ライブが出来るバーを開いたり、レストランを経営したり、
大山子と言うところにある芸術家村に巨大な芸術スペースを開いたり、
今回はその芸術村で3バンド集めて無料ライブをやろうと言う企画である。
入場料無料なのでもちろん出演料もナシ!
タダの仕事ほど楽しいと言うのが音楽も含む芸術の世界なのであるが、
さすがは芸術村、
ライブの前に行われる芸術家によるパフォーマンスがこれまたよくわからない。
例えばこの人
は頭の上にカセットテープのテープの部分をたくさん取り付けて、
四方八方からそれを引っ張ってもらってライトを当ててもらって綺麗だな、面白いな、と言う参加型パフォーマンス。
また、この人たち
は、マッサージ台を2台置いて、怪しげなライトの中で音楽を流してマッサージをする。
上に飾ってあるのは全て同じ時間を指してある時計。
(秒針はそれぞれ違う)
わけがわからん・・・
かくしてライブが始まる。
一番有名人である秦勇(QinYong)がしょっぱな。
うちでリハーサルやって作り上げた新曲3曲だけやってさっさと舞台を降りる。
後で聞いたらこれが彼の黒豹脱退後初のライブと言うことであった。
大成功と言えよう。
音楽のよさはビールの消費量に比例した。
次のバンドはS社長の会社と契約したニューメタル系の男女のユニットである。
レコーディングでもワシが叩いたのでここでもタダでドラムを叩く。
秦勇(QinYong)バンドのベースの重田もタダで借り出される。
ワシと重田は日本語で会話し、
ワシらと中国人ボーカリストは中国語で会話し、
中国人ボーカリストとフランス人ギタリストはフランス語で会話し、
そのギタリストとワシらは英語で会話する。
国際的と言えば国際的なのじゃが非常に疲れる・・・
そして最後のバンドはZiYou楽隊
実はこのボーカルのHelenと言うのは、
XYZの中国語版を録音した時に仮歌とコーラスをお願いした在米中国人のお姉ちゃんであった。
歌もパフォーマンスも非常によく、その日のビールの消費量は自己限界を超えた。
通風が心配である・・・
Posted by ファンキー末吉 at:17:14 | 固定リンク
2006年5月13日
中国のアサヤンもどき(のモドキ)
中国の音楽界で(まあ日本でもそうなのでしょうが)、
新人がいきなり社会現象になるほどヒットすることはまれである。
日本の「アサヤン」(実は見たことないのでよくわからんのだが・・・)
のようなオーディション番組をテレビで放送したところそれが去年爆発的なヒットとなり、
それに出場している女の子達がレコードも出してないのに
(まあこちらではレコードは名刺みたいなもんですが・・・)
超アイドルとしていろんなメディアにひっぱりだこになったのはほんの1年足らず前の話。
正にこちらでの「社会現象」のひとつであった。
しかし柳の下には何匹もどじょうがいると言うのがここ、中国である。
予想をまるで裏切ることなく、それモドキの番組が現在もどんどん作られている。
いつも仕事をくれるLaoLuanから電話が来た。
「Funky、小工作(日本で言ういわゆる小商い)なんだけど頼んでもいいかなぁ・・・」
まあ日本での生活もそうじゃったが、
こちらでは今やテレビすら持ってないワシにテレビの仕事を説明するのは骨がおれるらしく、
「超級女声って知ってるか?」と簡単に説明されただけだったので、
ワシはてっきりあの超級女声のバックをするのか・・・と思ってそれを引き受けた。
・・・と言うより、実はやっている時でさえずっとそうだとばかり思っていた。
かくしてリハーサルスタジオに着くと、
15人の初々しい(そうでないのも数人いるが)アイドル予備軍の女の子達が、
初々しく緊張しながら(そうでないのも数人いるが)ワシ達の到着を待っていた。
日本ではミュージシャンの地位は非常に低く、
爆風でテレビに出た時なんかもテレビ局のスタッフに
「バンドさんはこちらへ」と言われ、メンバー一同苦笑したことがあったが、
こちらではたかがバックバンドであっても「老師(先生)」と呼ばれるので
それこそ大違いと言うか、逆にちとこそばゆい。
女の子達も、日本の若い新人歌手達のように
「アンタたち誰?」みたいな視線を投げかけることもなく、
かと言って教育が行き届いたアイドル歌手のように
「よろしくお願いしまーす」と無味乾燥な笑顔を投げかけてくるわけでもない。
ここでの立場はどちらかと言うと
テレビ局が用意したダンスや歌唱指導の先生に似た感覚なのであろうか、
ある種の緊張感と尊敬の念を込めた眼差しでワシ達と接する。
ま、ドラム叩いて32年、
彼女達が生まれる遥か前から音楽をやってるワシを「老師(先生)」と呼ぶのはまだしも、
LaoLuanが呼び集めた、(まあ予算が少ないからであろうが)
ワシ以外の若い駆け出しのミュージシャン達にとっては、
年端も変わらない女の子から「老師(先生)」と呼ばれるのはかなりこそばゆいらしく、
「いい娘たちばっかりなんだけど、あの老師っつうのだけは何とかならんかのう・・・」
とは言うものの、
やはりこちらはレコーディングしててもミキサーから通行人までが歌入れに意見を言う
「13億総プロデューサー」の国である。
照れてたのは最初だけ、彼らもバンバン歌唱指導するする・・・
かくしてその場の雰囲気は、オーディションのリハーサルと言うよりはいきなり
「学園祭の練習」みたいになってしまったのである。
さて実は、そのリハーサルスタジオは一般貸しもやっていて、
アンダーグラウンドのロックバンドや、社会人、学生バンド達にもよく使われている。
まあ地元のアンダーグラウンドのロックバンドなんかが来た時には
ガラス越しにワシや若いミュージシャン達を見つけて我が物顔で中に入って来るのであるが、
そこに運良く(運悪く?)やって来たのがどうも日本人の学生バンドか何かだったらしく、
ガラス越しにどうもどっかで見た顔のドラマーを見つけるのであるが、
奥ゆかしい日本人には中国人のようにづかづかと中まで入ってゆく勇気はない。
バンド全員でガラス越しに貼り付いて中を覗いてる彼らに中国人が声をかけた。
「何やってんの?」
そこで彼らが初めてこう尋ねる。
「あのドラム叩いてるのファンキーさんですよね?」
「そうだよ」と答えられ、納得した彼らは、まあ別にワシに声をかけることもなく
そのまま自分たちのリハーサルを終え、帰って行き、
ワシは後に中国人スタッフが教えてくれて初めてそのことを知った。
「ファンキー、お前やっぱ有名人なんだなぁ・・・
あの日本人の若者達、ずーっとお前見て、ずーっとお前のこと話してたぞ・・・」
と言われ、何か複雑な心境・・・
あの人たち・・・ワシが若い女の子集めて何やってたと思ったんでしょ・・・
さてその女の子達であるが、
一応アイドル予備軍なんだから(そうでないのも数人いるが)ルックス的には一応可愛いが、
歌唱力となるとこれがなかなか難しい。
生まれてこのかた生バンドでなんか歌ったことないんだから、
いつも歌い慣れているカラオケの伴奏との違いに戸惑うばかり。
ある娘は老師たちに教えを請い、
またある娘は老師たちに胸を張ってこう言った。
「バックコーラスないの?」
一応に固まるスタッフ一同。
顔見合わせるワシ達・・・
「コンテストだからね、プロのコーラスがいるとみんなそれに頼っちゃうでしょ」
(本当は予算がないからなのであろうが・・・)一生懸命なだめるスタッフ達・・・
「お前、コーラスやれよ!」
新しく生まれためんどくさい仕事をお互いになすりつけ合うメンバー達・・・
しかし、ワシは個人的には実はこの発言をした娘が一番歌がうまいと思っていた。
ルックスも、その時は「お前、絶対年齢サバよんでるじゃろ」としか思わなかったが、
本番になるとばっちし化粧して結構美人だったし・・・
歌がうまくてルックスよければとりあえず性格は、ねぇ・・・
あと、印象に残った娘が、背がちょっと低くてぽっちゃりしていたために、
審査員からも総評の時に「それからあの・・・おデブちゃん・・・あんた歌うまいわねぇ・・・」
と言われていた女の子である。
彼女が選ぶ歌が、ちょっと古いタイプのバラードが多く、
うまいんだけどあんまし興味がなかったが、
本番のメドレーで彼女のルーツであるオペラを歌ってそのうまさに絶句。
歌がうまくて性格よければとりあえずルックスは、ねぇ・・・
しかしまあ後の娘達はと言うと・・・まあ・・・歌は・・・どうしようもない・・・
ひとり、ワシが昔プロデュースした李慧珍の曲を歌ったが、
「お前・・・頼むからその曲だけは歌うなよ・・・」
と言いたいほど情けない。
そいつだけは満場一致で「どうしようもない」のであったが、
本番ではそんなのが当選したりするんだから不思議なもんである。
歌えないと言えばひとり、頬を赤らめてマイクを両手で抱えるように持って・・・
これがまた本当に全然歌えないんじゃが、ワシのロリコン心を刺激して非常に可愛い。
本番では審査員から「あんた、可愛いのはわかるけどここは学芸会じゃないのよ」
と酷評されて見事落選。
しかしその時流した一筋の涙に司会者が同情し、
「じゃあせっかく練習したんだから1曲だけ歌っていいわよ」
とチャンスを与えてあげる。
涙ながらに歌う彼女・・・
ワシも何か他の曲よりも一生懸命ドラムを叩いたりするが、
こんな娘の選んで来る曲ってのがまたドラムなんてどうでもよいアイドル物だったりする。
でも・・・はっきり言って楽しい仕事じゃ・・・
さて、若き美しい(そうでないのも数人いるが)娘達の涙と笑顔に囲まれながら、
ワシの楽しき仕事はこれで終わった・・・と思ったらそうでもなかった。
「じゃ、また来週!」
あれ?これって決勝戦じゃなかったの?・・・
「これは15人の中から7人を選ぶ予選。来週はその中から5人を選ぶ」
・・・ワシの楽しみは続く・・・
・・・と思いしや、実はLaoLuan自身があまりのギャラの安さにこの仕事を降りてしまい、
結局ワシの楽しみは次の北京特別唱区の決勝で終わってしまった。
仕方がないのでそれをインターネットで放映しているサイト
http://www.supergirl.sohu.com/でその続きを見る。
ワシの仕事はもう既に過去のものとなってUPされてないが、
いやはやこれは・・・はっきし言って面白い!
ワシが一番歌がうまいと思った二人は最終予選で落とされてしまったようじゃが・・・
結局一番どうしようもないのが結局最後まで残ってたりするから不思議である。
うーむ・・・タダでもいいからずっとやりたかったぞ・・・この仕事・・・
Posted by ファンキー末吉 at:02:07 | 固定リンク
2006年5月11日
ブログ開始
アホなネタがある度に不定期にメルマガを発行していたのだが、
意外とツボにはまって楽しみにしている人もいるらしく、
その中のひとりから
「こんな面白いものはブログにしてもっとより多くの人の目に留まるようにするべきだ」
と強く勧められ、このドメインまでとって頂き、デザインまでして頂いた。
ありがたい話である。
ところがそのメルマガでさえ現状では数ヶ月に一度の発刊と言うカメよりのろいペースなのに、
ブログと言うとあーた!いわゆる「日記」ではありませんか!!
自信ないのう・・・
でもまあ、大ネタはメルマガにUPし、小ネタをここにUPするならまあ何とかなるか・・・
と言うわけで、とりあえず始めてみることにしました。
いつまで続くことやら・・・請うご期待!!