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2001年1月22日

北京で久々にライブ。やっぱ北京もええとこやなあ・・・

零下18度だと聞いていたのでどれだけ寒いかと思って、
モモヒキの上にジャージを着込んでからオーバーオールを着て、
XYZのファンからプレゼントされた防寒ジャンバーを羽織って北京空港に降り立った。
「あれ?想像してたより全然寒くないねえ」
同行した和佐田や団長がそう言う。
「本日の気温は零下4度で御座います」
ガイドさんがそう言うのを聞いて
「それは暖かい!」
とつい思ってしまうのは、
言い替えると、「うちの嫁が怒ってないから最近優しい」と言うのと同じである。
人間の順応性と言うのはまことに偉大だ。

「末吉さん、来週スケジュール空いてません?
李波の結婚式をプーケットで挙げるんですけど末吉さんも来れません?」
李波とはJazz-ya北京の実質的社長。
最近は人民代表にも選ばれ、偉くなっている。
「中国人が春節でみんなタイに行くんでホテルがとれないんです、
末吉さん最近タイで仕事してるって言うから、
そっちのコネで何とかホテル押さえられませんかねえ」
中国人もめっきり豊かになって、
ビザも取りやすいと言うことから旧正月はこぞってタイのリゾートに出かけるのだ。

さて俺はと言えばこの2週間の間に、
摂氏30度近いタイから零下4度の北京に降り立ち、
またすぐにそちらに戻って行こうとしている。
環境にすぐ順応してしまう自分が情けないが、
出来ることならずーっと一生南国で暮らしたいものだ。
とにもかくにも、また常夏のタイに戻れることは真に嬉しいもんだ。

さて、そんな末吉の最近のタイ好きを受けて、今日のお題。

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北京やっぱりいいとこ、一度はおいで・・・
----------------------------------------------------------------------

いつぞやから北京に魅力がなくなり、足が遠のいていた。
タイプロジェクトも始まり、またタイ人の心優しさに惹かれ、
そしてタイで頑張る日本人のたくましさに刺激され、
仕事もあるので足げにタイに足を運んでいるのを、
Jazz-ya北京の安田をはじめ、
末吉のせいで人生を棒に振って北京に身を投じている多くの人々は
内心それをあまり面白く思ってなかったと言う。

私の著書、「大陸ロック漂流記」は、
北京の留学生や日本にいる中国ロックファンの間ではバイブルになっていると聞く。
それに影響されて「ロックの聖地」北京に足を運んだ人も少なくないと言う。
その著者が「もうやめた」はないじゃろ!と言うことである。



今回友人の結婚式に呼ばれ、
和佐田や団長と一緒に結婚式で演奏して花を添えたのだが、
その夜、地元のバンドと一緒にライブをやらないかと持ちかけられた。
仕掛け人は小龍と言う、ついこないだまで北京の日本人留学生だった男。
今は帰国して、親の事業の一環として
渋谷パルコPart2の7Fで小龍茶館と言う中華レストランをやっている。
帰国した留学生によくあるのだが、
やはり北京が好きで、何とか中国と関係ある仕事をやりたいと言うことで、
どうせ親の会社で店を立ち上げるなら中華系にして、
買出し等の理由で北京にまた来れるじゃないかと考えてのことである。

行けば必ず地元のバンドのライブを企画すると言う彼だが、
今回たまたま俺たちと同じ時期に北京に来ていたと言うことで、
彼が一番入れ込んでいる「痩人」と言うバンドと俺たちとのライブを組んでくれたのだ。



俺が最初に足を踏み入れた10年前とは違い、
今は北京でも世界中の情報がリアルタイムで手に入り、
楽器や演奏出来る場所も容易に準備出来る。
ちょっと大げさだが「ロックやるのも命がけ」と言う当時とは全然違うのである。
黒豹をはじめ、ロックで大成功して大金持ちになった人たちを見ながら、
いとも簡単にファッションや金儲けでバンドを始める。

去年二井原と北京に来た時、地元のパンクバンドの演奏を聞きに行った。
演奏もヘタ、音楽性も流行りのハードコアそのもので面白くなく、
人間のオーラもパワーも皆無で、聞いてて退屈なことこの上ない。
そのくせ口を開けば、
「俺たちは満たされてない。
世の中は矛盾に満ちている。
俺たちは世界を変えるんだ!」
アホかい!と言うやつである。

俺が初めて北京に来た時、偶然地下クラブで黒豹のライブに遭遇した時、
同じようにヘタクソだった彼らの演奏には何かがあった。
ワクワクするような、ドキドキするような、
「こいつらはこの国の何かを変えてしまうに違いない」
と言う圧倒的なパワーやオーラがあった。
実際彼らはこの中国の音楽界を変えた。
売ってはいけない精神汚染音楽とされていたロックが海賊版で全国に広まり、
ロックは金になると知った政府はロックと手を結び、
当時放送で流してはいけなかった精神汚染音楽は、
今や若者の文化として堂々とテレビ、ラジオで紹介される。

それを見て聞いて育った次の世代の若者が、
容易に楽器を手に入れ、容易に情報を手に入れ、
楽器の練習をすることもなく容易にステージに上がり、
ファッションでパンクを気取ったって、
俺はお前らに世界が変えられるとは思わんよ。

でも君らの先輩達は中国を変えた。
ロックを変えた。
そう、ある意味、商業的にね。



一昨年の黒豹のオリンピック・スタジアム8万人コンサート。
偶然彼らの節目節目の大きなコンサートに遭遇する俺だが、
北京で開かれるロックコンサートとして歴史上最大であったこのコンサートは、
後で思えば、ある意味、中国ロック終焉の宴であった。

その後彼らはオリジナルアルバムを出していない。
俺の親友でもある彼らの元社長のシェンは俺にこう言った。
「奴らもうやる気なんかないよ。
レコード出したって海賊版で金になんかならないしさぁ。
みんな金儲けに忙しいもん。
集まってリハーサルして、集中して頑張るのもめんどくさいしさぁ。
それぞれ自分の商売に精出してた方がよっぽどいいんだよ」

俺の世代のロッカーはもうダメ、新しいロッカーは話にならないんじゃぁ、
こんな国のどこが面白い?
思えばそんなこんなで気が付けば足が遠のいていた俺であった。



結婚式の2次会終了後、迎えに来た小龍のタクシーに乗せられて、
海定区にあるライン河と言うバーの門をくぐった。
10年前はマキシムと外交員クラブぐらいしかロックが出来なかった時代とは違い、
こんなバーは今や北京に数限りなくあり、
昔と違って門をくぐった瞬間に感じる「ヤバいよ、ここ」と言う緊張感がない。
全てが「普通」なのである。

9時から始まる予定だった痩人の演奏は、10時を回った今でもまだ始まっていない。
「先に始めといてくれればいいのに」
と言う俺の意見を聞き入れず、
客を何時間待たせても俺たちが着くまで演奏を始めるなと指示していたのだ。

「よう!ファンキー!」
昔の仲間の顔がちらほら見える。
「ファンキーごめんねぇ」
李慧珍が遅れてやって来た。
初めて出会った時は田舎丸出しの小娘だった彼女も、
俺がプロデュースしたデビューアルバムがヒットして、その年の新人賞を総ナメ。
しかしその後、事務所と契約で大モメ。今はホサれている。
どうせなら何か1曲一緒にやろうと呼び出していたのだ。
ギタートリオでインストの曲ばかりしか出来ないので、
名前もあるし、せっかくなら花を添えてもらえば助かる。

痩人の演奏などそっちのけで、楽屋で和佐田と団長のために譜面を書く。
譜面渡されてすぐに弾ける彼らはまことに便利である。
軽く構成等を打ち合わせした後、李慧珍は楽屋を出て彼らのステージを見に行く。
うちの嫁が前回里帰りをした時、彼女に連れられて彼らのステージを見に行って、
「痩人、よかったわよ。私が黒豹のライブに通ってた頃を思い出しちゃった」
と言ってたのを思い出した。
「まあ、後で本人達と酒飲む時に、見てなかったでは悪いので、
ちょっとだけ覗きに行こうかな」
ぐらいの気持ちで客席に行ったら、これが思いの外かっこよくてびっくりした。

「為了自由歌唱!為了自由歌唱!」
ハードコアのようなファンクのようなサウンドに載せて連呼する。
「和佐田ぁ、ごっついええでぇ。見においでや」
譜面をおさらいしていた和佐田も
「ツェッペリンとかを彷彿させるバンドやねえ・・・」
と誉めていた。
「まずいなあ・・・こんな雰囲気でインストなんかやってもどっちらけやでぇ・・・」
客席の盛り上がりを見て心配する俺を、
「大丈夫、団長は1曲目から絶対凄いソロやるから、ほら」
和佐田に促されて客席に目を落とすと、
ギターを弾く時以外は無口で病的に内向的な団長が
客席で熱心にステージをチェックしていた。

痩人の演奏が大盛り上がりで終わり、
そのまま俺たちはステージに上がってセッティング。
だらだらとセッティングが終わってそのまま演奏が始まった。
1曲目から団長と和佐田はかなり気合の入れたソロを披露し、俺に渡した。
煽られて、俺も養生している手首をかまうことなくドラムソロをやってしまう。
2曲やってMC。
最前列1列は噂を聞きつけた日本人だが、大半は中国人なので中国語でMCをとるが、
思いの外ウケているのを実感する。
ジェフベックの曲を2曲やった後、李慧珍を呼び込んでセッション。
その後は最後の曲である。
お決まりのように団長はソロでギターをぶち壊し、アバンギャルドに幕を閉じる。
笑いと驚愕と大歓声の中、俺たちはステージを降りる。

「よかったっす、本当にありがとう御座います」
小龍が感激して声をかけて来る。
「凄いわぁ、ボーカルもいないのにこれだけ客を掴むなんて、なんて実力なんでしょ・・・」
李慧珍が感激して楽屋に来る。
「バンドと一緒にライブしたのって久しぶりよ」
中国では、歌手はカラオケを持って歌いに行き、
ヒット曲を歌って日本円で数十万もらって帰る。
海賊盤が売れて儲かるのは、
その海賊盤業者だけではなく、営業値段が釣り上がる歌手自身である。
ちなみに中国のプロダクションシステムは、
日本のとは違い、手数料制の日本で言うインペグ屋と同じである。
投資は事務所やレコード会社がして、儲けは歌手が全部持ってゆく。
これでは投資なんかしようと言う会社などいなくなるわけである。

楽屋で酒盛りが始まる。
痩人のメンバーが酒を振舞い、ロック談義に花が咲く。
「小龍は俺の義兄弟さ」
そう言う彼らを見て、10年前の自分を思い出した。

今回のこのライブ、主催は小龍個人。
経費は全て彼の持ち出しである。
北京のロックミュージシャンに刺激を与えたいと言う理由で、
我々の渡航費の3分の1を負担すると申しだしたのも彼である。
俺はともかく和佐田や団長のギャラを自腹で出すのも自分である。
そんな援助を受けながら痩人はその才能を磨き、もっと大きくなってゆくだろう。
そして家を買い、車を買い、女をはべらせて肥え太ってゆき、
最後には金儲けに忙しくなってバンドなどやってられなくなるのだろうか。

「ファンキーさん。痩人、どうでした?」
小龍が恐る恐るそう聞く。
「いや、物凄くいいバンドだと思うよ」
小龍の大きな目的の中に、この末吉のこのバンドを見せることがあったことはまぎれもない。
「それじゃあ、俺たちの素晴らしいお兄さん、ファンキーと、
日本から来てくれた素晴らしいミュージシャン達に乾杯!」
小龍の思惑通り、痩人と俺たちはこうして友情を深めてゆく。

あの時、同じように黒豹に朋友と呼ばれ、北京に足げに通い詰め、
安田と「中国人から1元でも取れた時に乾杯しましょう」と、
将来は移住するつもりで全財産をこっちに持ち込んで、
結局、商売としては安田は1元どころか巨大なBarを大成功させ、
音楽としては俺は相変わらずまだ李慧珍のために何かをやってあげようとしている。
そんな俺も今では「朋友」ではなく「お兄さん」になった。
そして10年前の俺のようなバカがこうして、
新しい世代のバンドに入れ込んで「お兄さん」を担ぎ出そうとしている。

為了自由歌唱!
自由の為に歌を歌う!

彼らが本当に自由の為に歌を歌っているのかどうかはわからない。
「中国人なんてみんなお金のために歌っているに決まってるじゃない!」
同じ中国人であるうちの嫁が笑いながらそう言う。

どっちでもいいや、かっこよければ。
ウソだって何だって、俺は感激さえさせてくれるなら何だってやるよ。



XYZの100本目のライブを初めて見に来た男の子からMailが来た。

「誉めることはいろんな人が言うでしょうから、
僕はちょっと物足りなかった部分をMailに書きます。
僕はいつもB'zとか、ユーミンのコンサートを見ているので、
照明や特効もないステージははっきり言って退屈でした。
あと、各人楽器のソロをやられてましたが、
僕は楽器のことはよくわかりませんのであまり面白くなかったです」

まあそう言われても俺達にはどうしようもない。
照明や特効で彼らにかなう資金力は俺達にないし、
まあ楽器に興味のない人に感激を与えられなかったのは、
言ってみればパフォーマーとしての俺達の技量の不足かも知れないが、
まあひょっとしたら彼を満足させることが出来るステージは
俺達には一生出来ないんじゃないのかなあ・・・。



音楽の楽しみ方は人の勝手である。
Aみたいなのが好きな人がいて、Bみたいなのが好きな人がいて、
どちらも人の勝手だし、
でもその人数によってメジャーかアンダーグランドかが決まる。

中国でも体育館でやる歌手はメジャー、
ライブハウスでやるロッカーはアンダーグランド。
しかしある瞬間からそれが逆転した。
お決まりのオムニバス歌謡ショーよりもロックバンドの方が客が入るようになった。
そしてそのロックが歌謡ショーと変わらなくなってゆく。

精神汚染音楽とされている音楽を海賊盤で入手し、
それに熱狂して地下クラブに通う時代は中国ではもう過去のものなのである。
人々はテレビやラジオでヘビーローテーションの曲を聞き、
街で大きく広告が打たれている商品を手にする。
「売れるか売れないかなんてどれだけお金をかけたかだよ」
そう言い切るシェンの手がけた歌手の看板を街角でよく見る。
彼から頼まれて俺がアレンジした彼女の曲もチャートに入っていた。
この街はもう日本となんら変わりはない。

感心はするけど感動はしない音楽が多い昨今、
むき出しの裸で俺を感動させてくれた北京のロッカー達のために、
俺は俺なりに感謝とリスペクトを込めて、いろんなことをここ、北京でやって来た。
そしてそんな俺達の世代のロックは終焉を迎え、
しかし次の世代のロックには次の世代の俺のような奴がそばにいて、
俺と同じようなバカをやっている。

バカはいい。
感心はしないが感動する。

まあそんなバカがいる限り、俺も中国からは卒業出来ないかな、
なんて考えてる俺は、やっぱバカな「お兄さん」なのかも知れないなあ・・・

なんてことを考えてしまった極寒の土地、北京。
ちょっと心は暖かかった。



ファンキー末吉

Posted by ファンキー末吉 at:14:00 | 固定リンク

2001年1月19日

ビジネスマンM氏とP氏のタイでの熾烈な戦い

いやータイはよかった。
何と言っても暑い!
冬だと言うのに十分プールで泳げる。

帰国して2日目の今日この頃、
相変わらず留守のために溜まりに溜まった仕事をこなして一息ついたら、
もう数時間後にはまた飛行機に乗って、
今度は極寒の地、北京。
マイナス18度と言うから気がひける。

タイにも中国人はいっぱいいて、
不自由な英語で苦労してた時、ひょんなことから中華系に出会って助かったりする。
しかし同じ民族でもこんなに違うところで住んでいるのね・・・

うちの嫁は日本で住んでる中国人だが、
来日して9年目にしてやっと国籍を変えようと言うことになった。
いわゆる帰化して日本国籍となろうと言うのである。
「だって中国のパスポート不便だもーん」
ぐらいなノリである。

韓国人等に言わせると帰化と言うのは民族の誇りを捨てた行為であるとされ、
いろいろ大きな議論に発展したりするのだが、
俺が見る限りどうも中国人にとっては国籍などどうでもいいことらしい。

今回のタイ行きは帰化申請中と言うことで嫁は海外には出れず、
結局、動脈瘤によるクモ膜下出血による瀕死の状態から奇跡的に助かった
リハビリ中の岡崎はんと一緒であった。
と言っても仕事で連れてゆくほどの復帰にはまだほど遠く、
「入院中にご心配をかけたみなさんでメシでも食ってください」
と彼のご両親から渡された数万円の現金を
俺ら「みなさん」が「ほなそうでっか」とありがたくもらうわけにもいかず、
ほなこの金でタイにでも行こや、
みんなはご家族に会ったら「ご馳走さま」言うとくんやで!
とタイ行きの切符に化けた。

数ヶ月前は「絶対に助からん!」と言われてた岡崎はんも、
今では酒飲めるぐらいまで復帰し、
ただ、左眼にちょっと麻痺が残っているのと、
基本的な体力がまだ復帰してないぐらいで、
ギターも弾けるし、無理しない程度の海外旅行も大丈夫である。

予算には限りがあるので、
世に現存する一番安いパックツアーを申し込んで、
ツインルームにふたりで投宿する。
基本的にはまだ病人の範疇なので、
「一日ひとつにしようや。どこに行きたい?何したい?」
ってな海外旅行である。

この男、ほっといたら基本的に英語等一切使わず、
主体性のないこと甚だしい。
北京ライブに行っても「姉ちゃん、お勘定、いくら?」やし、
五星旗のNYレコーディングに行ってファーストフードのステーキ屋に並んでも、
前の黒人が頼む「Combo5 Please」っつうのを見て、
「姉ちゃん、ワイも5番ちょーだい!5番ね、5!」
ってな男である。
食事は他の人が頼む物と同じ物を頼み、
ステーキの焼き方から食後のコーヒーまで同じである。

俺はタイプロジェクトのコンベンションライブのために来ているので
基本的にはいつも岡崎はんをほったらかして先に出かける。
だいたい格安のパックツアーと言うのはホテルと飛行機から格安になり、
ホテルなど繁華街から程遠い不便なところになってしまう。
電話やFax等でやりとりしながら自力で会場まで来させようとするのだが、
まあこんな男なんで仕方がないと
リハから本番の間にタクシーでピックアップに行ったりする。

毎日それも大変なので、
繁華街に一番近いホテルのホテルカードを入手して、
「タクシーに乗ってこれ見せたら何も言わんでも連れて来てくれるから」
と準備万端にしていても、携帯が鳴って
「地図がどっか行ってもうたにゃわ・・・」
と来る。
しゃーないからまた往復1時間以上かけてタクシーでピックアップに行く。
「老人介護みたいなもんやなあ・・・」
とは自他共に認める俺の感想である。

さて極寒の地に数時間後には降り立つ俺が
常夏のタイを懐かしんでお送りする今日のお題。

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M氏がアジアに戻ってきた・・・

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さて、今回のマスコミ・コンベンション。
M国のPレコード会社の社長だったM氏も招待されていた。
東南アジアに行けばどの国にも彼がいて、
今は惜しまれつつ日本に帰ってしまったが、
ある時は音楽ビジネスを、
またある時はカバンの輸入、
そしてある時はGショックの並行輸入をしていた。
ある日など成田空港でばったり遭遇し、
「何やってんですか?」
と聞いたら、何と当時入手困難だったワールドカップのチケットを手に握り締めて
「いやー、人に頼まれまして香港経由でやっと入手したんですよ」
と頭を掻いていた。
この人はきっと数人分身がいて、
アジア各国でいろんなことを同時に分身たちが動いているに違いない。

さて、そんなM氏が立ち上げてくれたこのタイプロジェクトだが、
その後こうして正式にレコードがリリースされ、
このコンベンションライブでは
「一般招待客は別にして、取材人が80人来たらまあ大成功でしょう」
と言うことで100枚しか用意してなかった取材人用のパンフレットも足りなくなるほどの盛況ぶり。
その結果もあってチャートにも初登場17位と言う上々な滑り出しであった。

基本的にレコード会社の社長と言うのは音楽畑出身な人が多いが、
ことM氏は商社マン出身と言うことで発想もどこか全然違う。
「ファンキーさん、せっかくタイに行くんですから、
今度のオリジナルメンバーで再結成したラウドネスの東南アジアでのライセンス、
これ今回タイで決めて来ましょうよ。XYZのアジア進出にも有効でしょ」
と来る。

まあXYZの東南アジアライセンスも彼がアテンドしてるので仕事と言えば仕事なのだが、
今やM国のP社の社長ではない日本に帰っている彼には基本的に全然メリットはない。
まあそう言う金にもならない布石が商売なんだと言えばそれまでだが、
今回はそのルーツを垣間見るような出来事に遭遇した。



爆風スランプが所属していたSONYレコードはタイにもあり、
そこの社長のピーターガンと言う人間は知る人ぞ知るアグレッシブな人間である。
爆風でも2度ほど彼にお世話になったことがある。

SONYのタイタニックのCDは世界的なベストセラーであるが、
タイSONYだけで20万枚と他国を圧倒している。
裏を返せば、これは単価の安いタイでの製品を、
彼は平気な顔をして他国に流していると言うことでもある。
SONYと言う会社は
「どこが打ってもグループの売上やないかい」
と言う考え方を持っているのでお咎めなしだが、
他社だとこれは大問題だとM氏は言う。

そう言えば北京にはSONY(ハードの方)の営業所があるが、
合弁法の厳しいこの国において、
この営業所は外貨を持ち帰ってはご法度なので、
ひたすら自社製品のメンテ等ケアーをしていると言う。

またここでおかしいことが、
関税が200%とか300%のこの国で、
SONYの製品が日本と同じ値段で売られていることである。

これは北京Jazz屋発足の時期に
カクテルの原料となる酒の入手方法を調べた時の情報であるが、
基本的に官僚等コネのある人間が、
香港経由で大々的に密輸している場合が多いと言う話である。

そこで北京の現地のSONYの人曰く、
「どこからどのようなルートで入ってきているのかは別として、
どうであれうちの製品がここで売られているのは事実なんですから、
これをメンテしてお客さんにちゃんと使ってもらえることが総合的な私達の利益です」
と言うのである。

この考え方がM氏と非常に似ていると言うか、
杓子定規な他の日本企業とは大きく違うところである。



さてそんなM氏とピーターガンが遭遇した。
「いやー、電話では何度もやりとりしたけど会うのは初めてだねえ」
から始まって、お互い矢のような英語のやりとりである。
俺はと言えば最初に
「いつぞやはお世話になりました。爆風のドラムです。今タイ人のプロデュースやってます」
と挨拶し、
「いやー、久しぶり!覚えてるよ。あの頃は一生懸命プロモーションしたけど残念だったねえ」
と笑顔で迎えられた以後はずーっと蚊帳の外である。

ふたりの英語のレベルは俺には表面しかわからないが、
M氏は日本から頼まれた某有名バンドの映像原盤を小脇に抱え、
あげくの果てにそのバンドのキャラクターグッズのライセンスの権利まで決めている。
後で聞いた話だが、
「Mさん、そのキャラクターの話まで依頼されてたんですねえ」
と聞いたら、
「いや、全然!ありゃブラフですよ。
だって日本側にとったって金銭になるし、何より先方が一番喜ぶ話じゃないですか。
それを最初にぶちかましておかないと商談は成り立ちませんよ」
と来る。

こんなふたりのやりとりをしばしぼーっと聞いてた俺だが、
とにもかくにも生き生きと話すふたりを見て、
俺らミュージシャンがステージでしか生きれないのと同じだと感じていた。
こんな話をしてる時が、彼らビジネスマンにとって一番至福の時間であって、
これは金のためではなく、
最終的には金にはなるのであるが、とにかくこの瞬間のために彼らは生きているのである。
俺らミュージシャンが、
「俺はプロやから金は取るでぇ」
と言いながら実は音楽やってる時には金のためにはやってないのと似ている。
事実この話は決まってもM氏には1銭も落ちない。
金にもならないのに日々Jamセッションやってる俺のようなもんである。

それにしても話も早いが英語も速い。
俺にはもう表面を聞き取るだけで精一杯である。
ぼーっとして聞いていたらいきなりピーターガンがこっちを向いた。
「んで?なんでタイ人のプロデュースやってんの?その話を聞かせてもらおうか」
と来る。
このペースで英語など喋れるわけもない俺が困るより先に、
M氏がすかさず俺の隣に座りなおし、
「いやー、ファンキーと言えばねえ・・・」
から始まって一連のなれ初めから現状、そしていかに俺がお買い得かを説明する。

またピーターガンとてそんな人間である。
「そうか、んで?値段はいくらだ?」
「ね、値段ですか?・・・」
音も聞かずにいきなりまず値段なのであるが、
タイでやってる仕事のやり方をとりあえず日本語で説明してM氏に訳してもらう。



日本人がアジアで音楽活動がやりにくい原因のひとつに、
そのシステムが国によって全然違うと言うところがある。
日本人はとかく自分のシステムを壊すことが怖いと思うらしく、
自分のやり方で何とか相手に合わせてもらうように無意識のうちにしているらしい。

俺はと言えばどちらかと言うと中国的と言うか、
逆に自分がイヤと言うほど中国人からやられているので、それを人にやっているところがある。
基本的に楽曲は買い取りでも印税でもなく、アドバンスをもらった上での印税制。
中国人がよく使う、権利も持ちつつ現金も手に入れる方法である。
こんな日本人はきっといないだろう。

またこのタイプロジェクトの場合、支払いもアドバンスはキャッシュで日本円だが、
印税は現地のお金でもらうことにしている。
何故かと言うと為替レートが高くてもったいないからである。
日本円で振り込んでもらったとしたら20%の為替手数料がかかる。
例えば100万円の入金があったとすると、
手数料で20万円取られてしまうのである。
20万あればその国まで往復できんか?
おまけに美味いもん食って、美味い酒飲んで、
ついでに現地でまた新しいチャンスに出会えるやないの。

そんなこんなでタイでは自分の口座を開設している。
ピーターガンがどんな方式を提示しようと俺は全て受け入れられるのである。

これだと話が早い。
あとは「やるかやらんか」だけである。
「よし、じゃあ日本円で値段を決めたらレートの変動でめんどくさくなるのでバーツで決めよう。
1曲○○バーツ。あと印税は○○パーセント。これでいいね!」
ピーターガンのまくし立てに目を白黒させてるうちにM氏が話をまとめる。
「じゃあ月曜日の朝までに資料楽曲を届けさせます。
いやー、今日はお会いできてほんとによかった・・・」
ぼーっとしている俺を尻目にふたりは興奮しながら英語でシメに入っていた。



俺はそのままホテルに帰り、
リリースしたばかりのタイプロジェクトのCDをパソコンに取り込み、
ストックしてある楽曲のMIDIやMP3データを変換してCD-Rに焼き付ける。
この作業、楽に二日がかりである。

その間、岡崎はんは傍らでぼーっとしている。

老人介護の俺としては一応気を使ってみる
「腹減った?何か買うて来てビールでも飲むか?」
傍ら仕事をしながらタイ料理を頬張りながらビールを飲む。
焼き付けの待ち時間にはJazzがかかり、いつものようにアホな話に花が咲く。
「これって新大久保のあんたの家でいつもやってることと変わらんなあ」
「ほんまやなあ、どこに行ってもおんなしやなあ・・・よう言われるわぁ」
まあ料理が本場になったんと、酒の値段が数分の一になったんと、
そんぐらいやなあ・・・

かくして俺のタイでの休日はこれでつぶれた・・・
書かねばならん原稿も書かんかった・・・
ホームページの更新もまたせんかった・・・
曲など1曲も作らんかった・・・



タイプロジェクト、ひとつめが好調に滑り出し、
聞けばこちらは年に6枚リリースしなければならないと言う。
そしてSONYのプロジェクトも始まったりしたらマジでこっちに住んだ方がええでぇ。
俺が今、世界一物価の高い東京で住んでる理由って何なの?

M氏が交渉ごとの時に水を得た魚になるように、
俺らミュージシャンはライブの時がそうである。
ツアーツアーの毎日で、家になど月に何度帰るだろう。
ほな家ってなんで必要やねん!

気が付けばいつの頃からか家には俺の部屋はない。
基本的に俺の物もほとんどない。
必要な物はすべてパソコンに入っていて、
別に人が咎めなければ一年中同じ服を着ていても気にしない人間である。

「ちなみにタイって家賃いくらぐらいなの?」
現地スタッフに聞いてみた。
「そうですねえ。一等地でも日本円で5~6万出せば結構なとこ住めますよ。
メードさんも月1~2万円ぐらいで雇えますし」

俺が家族の生活のために日本に落としてる金っていったいいくらや!

タイでの生活費。
岡崎はんと飲むビール、1缶70円。
タイカレーや惣菜1食分60円。
疲れた時のフットマッサージ1時間700円。
タイ式全身マッサージ2時間900円。
庶民のバーに飲みに言って、結構酔っ払っても1000円。
シメのラーメンは60円。

同じく新大久保での俺らの生活。
岡崎はんと飲むビール、1缶200円。
100円ショップで買ってきたお惣菜でも1/3食分ぐらいで100円。
ほなサウナでも行こか、で1500円。
マッサージ30分して3500円。
和民や白木屋でヘベレゲになって2000円。
シメのラーメンで650円。

この国って一体どうなってんの?



嫁にさりげなく持ちかけて見る。
もしそうなれば俺は日本に家はいらん。
どうせツアーで渡り歩いてるやろうし、
うーむ・・・ピーターガン次第やなあ・・・

「何言ってんですか、末吉さん。
住むんだったら北京にして下さいよ。部屋用意しますよ。
カクテルバー「Jazz-ya」、日本料理屋「飯屋」、Sushiバー「Sushi屋」、焼肉店「牛屋」
に続いてライブハウスでもやりましょうよ」
北京の安田がそう言って電話してくる。

でも北京は寒いからなあ・・・

あ、もうぼちぼち荷造りをせねば・・・

ほな。

ファンキー末吉

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2001年1月 4日

高知よいとこ早う独立しなはれ

謹賀新年 謹賀新年 謹賀新年 謹賀新年 謹賀新年 謹賀新年 謹賀新年 謹賀新年 謹賀新年
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21世紀最初のお題:
「高知よいとこ早う独立しなはれ!」
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香川県坂出市で生まれた俺も、
今や母親が生まれ故郷の高知に帰って来たので、
必然的に実家が高知になってしまった。

高知と言えば俺は小さい頃からしょっちゅう行き来をし、
あの難解とされる土佐弁も喋ることは出来ないが聞き取るには問題ない。

土佐の「いごっそ」と言うと酒をたくさん飲むと言うイメージがあるが、
実際高知には「ベグハイ」と言う杯があって、
例えば円錐形になっていて、
あるいはひょっとこのお面の形をしていて口のところに穴が空いており、
そこを指で押さえて酒を注ぎ、
いわゆる注がれた酒は飲み干してしまわないと置けないのである。

皿鉢料理と言う料理もある。
大きなお皿にこれでもかと料理をてんこもりにして、
三日三晩それを魚に酒を飲み続けるのである。

日本のおせち料理と言うのが
主婦を台所から解放するために作られたと言う話があり、
作り置き出来る料理を年末にたくさん作って置いて
正月三が日はそれだけをつまんで主婦を楽にさせると言うものだが、
土佐の皿鉢料理と言うのはその大型版なのではあるまいか。
これが正月だけではなく、何かお祝い事があるごとに出て来るのである。

しかし、おせち料理と違って皿鉢料理が主婦を解放するかと言うとそうでもない。
三日三晩続く宴会の世話はやはり主婦がやる。
当然酔いつぶれた男どもの世話も主婦である。

おふくろの田舎が宇佐と言う猟師町だが、
幼い頃そこの何かの宴会の時に遭遇したことがある。
赤ら顔をした大人と酔いつぶれた男達と、そして甲斐甲斐しく働く女たち・・・
そんな光景が来る日も来る日も続いていた。

実際、親戚のおじさんはアル中で死んだ。
いわゆる日本ではアル中だと人生の落伍者のようなイメージがあるが、
別に高知では
「○○はアル中じゃきぃしょうがないがよね」
と別に何事もないかのように酒を酌み交わす。
いつも赤ら顔をして飲んでいたそのおじさんを思い出す。

かくしてそんな高知で今回年越しをしたわけだが、
とにかく酒も飲まず、紅白も見ず、
毎日子供と共に9時には寝る生活をしていたのだが、
正月そうそうやはり電話でお呼びがかかる。
「何しゆうがぁ?伊勢海老がどっさりあるきぃ、お母さんと一緒に出て来ぃや」
高知の親戚の中でも最上級にファンキーなおばはん、
バーバー山下のアキちゃんである。

ちなみに高知では男性名詞の「いごっそ」に対抗して
女性の場合は「はちきん」と言う言葉を使うが、
このアキちゃんこそは「はちきん」の典型的なおばちゃんである。
言語はちゃきちゃきの土佐弁しか喋れず、
例えばXYZのメンバー等が来た時にも、
二井原曰く「何を言うとるんか全然わからん」と言うほど土佐弁がきつい。
アキちゃんとうちの母がふたりで東京のJazz屋で飲んでいると、
バーテンの南波が
「あのー・・・、どうしてお二人は喧嘩なさってるんですか・・・」
と聞いたと言う。
普通に喋っているのだが・・・

「あんた鍵持っちゅうが?ほいたら先に上がって待っちょいたらわ?」
と言われ、下の子供を連れて先におじゃまする。
アキちゃん一家は初詣に出かけ、母は上の子供を連れて初詣に行っている。
下の子と一緒に鍵を開けて中に入ると、
縦に長いそのビルの2階にある客間にはテーブルとグラスが用意され、
客人のお越しをところ狭しとお待ちしている。

しばらくしてアキちゃん一行が戻って来て、
一番乗りでそこに座っている俺にまくし立てる。
「あんたここやないわね、上へ上がりや」
中二階の台所をかすめながら3階の居間に行くと、
そこにはすでにところ狭しと皿鉢料理が盛られていた。
つまり宴会場が2つ用意されていたのである。
「何飲むがぁ?ビール?お酒もあるでぇ」
はちきんはせっせと酒を振舞い、
到着した宇佐の大ばあちゃんと大じいちゃんを中心に酒盛りが始まる。
「この子が下の子かね?たんまー大きゅうなってぇ」
ちなみに中国語でも感嘆詞として「他 女馬 的(タマーダ)」と言うのを使い、
いわゆる英語で言うFuck'n言葉だが、
用法やシチュエーション等土佐弁とまるで同じである。

下の子を見ると極度の人見知りをしていたって無口である。
聞けば、どうも何を話しているのか全然わからないと言うことである。
土佐弁はすでに彼にとっては第3の言語なのである。
上の子が到着した。
上の子はすでに土佐弁も理解している。
日本語、中国語、土佐弁を解するトリリンガルであった。

親戚がどんどん集まって来る。
アキちゃんの長男の嫁は去年横浜から嫁いで来た。
「何を喋ってるか分かる?」
聞いてみると彼女は小さい声で、
「まだ半分ぐらいしか分からないです・・・」
「あんた外国に嫁いだ嫁と同じやねえ・・・」

人はどんどん増えてゆき、
一家の主であるアキちゃんの旦那さんは、
下に下りて客間の客人をもてなしている。
上の居間には酔いつぶれた親戚がマグロのように寝ている。
よく見る光景である。
アキちゃんは上へ下へとかいがいしく料理を、そして酒を運ぶ。

「あんた何しゆうがぁ?早うおいでや。
これっば大きい伊勢海老がこじゃんとあるがやきぃ」
さすがは猟師町である。
生きた伊勢海老が台所でぴんぴん跳ねている。

「たんまー、カツオがどっさり来たぁ」
頼んだ量を間違えたか食いきれないほどのカツオが大皿に乗ってテーブルに並ぶ。
「残しなやぁ。どっさりあるきねぇ」
ちなみに「残しなやぁ」と言うのは、
残せと言う意味ではなく、残すなと言う意味である。

早々と帰る客にはせっせと車を手配する。
「車はおいちょきや。それっば飲んだき運転せられん!」
「せられん」とはしてはいけないの意味で、
ちなみに高知の標語はちゃんと土佐弁で
「飲んだら乗られん、乗るなら飲まれん」である。

代行運転はさすがに盛んで、
酒が文化である街に相応しい。
聞けば高知県、人口ひとりに対する飲み屋の割合が日本一高いらしく、
また、貯蓄やタンス預金等よりも、
地元でお金を落としていく割合も一番高いらしい。
高知で稼いで高知に落とす。
ここはひょっとしたら独立国家としてやっていけるんではないか・・・

数年前、民放のテレビ局は高知放送しかなかった。
高知放送は高知新聞を発行している。
高知新聞のシェアが他紙を圧倒して90%と言うから凄い。
あの時期、高知放送がクーデターを起こしていたら、
情報を一気に統制出来るので独立出来たかも知れない。

しかし独立したところでどうなのであろう・・・
ここの人達は別に毎日が楽しければそれでいいのではあるまいか・・・
「こんな小さい街に競馬と競輪と競艇とみっつ全部あるがですよ」
土地の人が笑い話でそう言う。
(まあひとつは鳴門にあって券を高知で買えると言うことらしいが)
「年寄りはみんな老後の蓄えやとばかり年金をそれに貯蓄しゆう」
冗談でそう言うが、そう言えば
「ハワイで屋台のたこやき屋をやる」
と言って出て行った俺の従兄弟は今何をしてるのだろう・・・
そんな従兄弟が年寄りになればきっと似たような感じになるだろう・・・



子供が「おうち帰る」とわめくのでそうそうにおいとました。
「もう帰るがかえ?ようけ残っちゅうきぃ、明日も食べに来ぃやぁ」
明日も明後日も、酒と料理が続く限りこの宴会は続くのであろう。
「そんなヒマはない。アキちゃんに頼まれた
”バーバー山下顧客管理データベース”を構築せなアカンがね!」

髪の毛をカットしてもらったがために、
専門家がやれば10万20万とるような仕事を引き受けてしまった・・・
今は子供が寝静まった後に、
「Access完全攻略本」を片手にプログラム作りに没頭している。

「末吉さん、XYZレコードの会計データベースの方を先にお願いしますよ」
事務所の西部嬢の顔が目に浮かぶ。

「末吉さん、原稿はまだですか?」
「中国語で歌おう!カラオケで学ぶ中国語」第2弾の原稿を待つ、
アルク出版の古市さんの顔が目に浮かぶ・・・

「末吉曲のストック、いつになったらCD-Rに焼いてくれるんや」
次のプロジェクトのプロデューサー、バーベQ和佐田の巨体が目に浮かぶ・・・

「末吉さん、原稿お願いしますよ」
週刊アスキー末吉担当、神野女史の顔が浮かぶ・・・

「末吉ぃ、2枚目のアルバム作る言うて曲が足りんでぇ」
三井はんと大村はんのブサイクな顔が目に浮かぶ・・・

「原稿締め切りは12日でいいですね」
タウン情報かがわの担当編集者のナイスバディーが目に浮かぶ・・・

「WeiWeiさんのアルバムの文字稿を・・・」
腰の低いデザイン会社の担当者の引きつった笑顔を思い出す。

「ヨーロッパのライセンス契約、その後の詰めはどないなった?」
二井原の下ネタを喋る時の至福の表情を思い出す。

「20日の北京での演奏曲は?」
綾社長の離れた目と目を思い出す。

「Would you like to do other thing on Press Conference Day?
For Example, you play guitar...」
ドラム以外は勘弁してくれぇ!・・・
・・・そや、高知から帰ったらすぐ10日からタイに行くんや!
岡崎はん連れて1週間・・・そこで全部やったれ!

・・・とばかりこんなどうしようもない文章から先に書いているアホな俺であった・・・

いやー・・・やっぱ南国がええわ・・・
次は早うタイに行こ・・・・

ファンキー末吉

Posted by ファンキー末吉 at:22:00 | 固定リンク