2015/09/05
恩人の息子
日中を行き来して仕事をする上において、言うまでもなく一番の出費は飛行機代である・・・。
最近は抗日70周年の軍事パレードのせいかドタキャンが増えているが、
大事な仕事のために北京に帰って来てその仕事がキャンセルになって何も仕事をせずに日本に帰ったりはあっても、このようにスケジュールの狭間で、この一本のライブのために2泊3日で北京に来なければならないような小さなライブはキャンセルにならなかったりする・・・(>_<)
まあ関空北京往復2万円やったからええか(安っ!!)ということでこのライブのためだけに帰って来た。
渋谷有希子が北京に来てから、中国での「ファンキー末吉トリオ」のメンバーが固定して、張張と共に精力的にライブをやっている。
数ヶ月前に江湖(JiangHu)というライブハウスでこのトリオでライブをやった時、
Kevinというアメリカ人がライブを見に来ていて声をかけてくれて、今回のこのライブが実現した。
でも最初は何かイヤな感じだった・・・
だって中国語も喋れずにやり取りは全部英語、
「ギャラは?」という質問には「うちは飲食を店から提供するからタダでやって」みたいな感じである。
「今日の江湖(JiangHu)のオーナーは2000元くれたからそれでは受けられない」
と一生懸命英語で答える。
「じゃあオーナーと相談する」
から始まって何とギャラ2000元で今日のライブが決まったのだ。
実はあの日の江湖(JiangHu)は珍しく超満員だったので2000元くれたのだが、
通常好きなJazzなどやってる時にこんなにチャージバックをくれることは滅多にない。
それを客の入りに関係なく2000元くれる店、
しかもうちから車で15分という一番近い店なのである。
今後ともここに定期的に出してもらえればなぁ・・・
そんな気持ちもあったのでこの仕事を受けたのだが、今日の土壇場になってこのメール(>_<)
「Good afternoon. I hope you are doing well. Unfortunately because of the weather we will probably not have very many people coming tonight. That means we will not have much money. If you still want to come play would it be okay to give you 1000? We would really like to have you guys come for another show as well when we have a lot of people. Then we would be happy to pay more. Please let me know what you would like to do. Sorry for the inconvenience. 」
さてと・・・これをどう考えるべきか・・・
一応張張にも転送して意見を請う。
「多少钱都无所谓!我要演出我要演出我要演出我要演出我要演出!!!」
(お金なんてどうでもいいの、ライブやりたいライブやりたいライブやりたい!!)
まあそこまで言うならしゃーない、「OK」と返事して小屋に向かう。
まあ2000元が1000元になったのは痛いは痛い(>_<)
このためだけに北京往復してるので、飛行機代を6割回収出来ると思ったのが3割になったのだから・・・
でも全ては「フレンドシップ」なのだと思う。
ワシが自分の都合で勝手にキャンセルしたらそこに「フレンドシップ」はなくなるが、
こうしてライブ前にわざわざ書いて来てくれるのも「フレンドシップ」である。
普段ここに出ているバンドはノーギャラで、
その変わり飲み放題食い放題で出演している。
ワシらはギャラもらってるので飲食はお金を出して頼もうと思ったら「悪いから」ということで奢ってくれた。
ワシは「これが中国人だったらどうだろう」と考えた。
ひょっとしたら出演した後に「雨だから客の入りが見ての通りだろ」ということでいきなり値切って来るかも知れない。
中国語が全く喋れないこのアメリカ人、結構いいヤツかも知れないと段々好きになって来た。
前置きが長くなったが、この日のライブにはひとりの若者が来ていた。
西洋人ばかりのこのバーで、客席にいる長髪のこの若者の存在は気になっていたのだが、
ライブが終わって物販のところに来たら、
「サインして下さい」
と出したCDがなんとX.Y.Z.→Aの「WINGS」!(◎_◎;)
重慶でも橘高ファンの女の子がいたので、ひょっとしたら日本語の上手い中国人かも知れないが、聞いてみたら日本人だと言う。
そして会話の中で彼から信じられない言葉が飛び出したのだ。
「居酒屋兆治ってご存知ですか?」
ワシが初めて北京に行ったのは90年の時、
当時外国人が投資をするには国家のいろんな許可が必要で、
外国人専用の住居に住まわせられたり高い税金をかけられたり、
そんな中で奥さんの名義で居酒屋を開いた、日本人が北京で商売をやる草分のような人、それがこの居酒屋兆治のオヤジ、田端さんだった。
(ワシの著書「大陸ロック漂流記」に書かれているそれに関するページ)
「僕、その田端の息子です」
ワシは飛び上がるぐらいびっくりした。
「田端さんに息子さんがいたのか・・・」
その後爆風スランプのライブを実現するべく奮闘してくれて、
田端さんのおかげでやっとコネが出来て崔健とのジョイントライブが実現した。
当然ながら当日まで毎日兆治に通って田端さんと飲んだ。
爆風スランプが翌日に出演した北京広播電台45周年記念のコンサートでは公安が中止命令を出してスタッフを満場の観客が見る前でボコボコにした。
その後、ボロボロになったスタッフとメンバー、爆風のマネージャーも一緒にやって来たのも居酒屋兆治。
「明日のコンサートは出演辞退しますからね」
2日間の予定を初日でこれなので出演辞退を宣言するマネージャー。
「いや出る!!」
と言うワシに
「明日はサザン北京公演の初日なんですよ!!
爆風が何かやってサザンのコンサートが中止になったらどうするんですか!!」
というマネージャー。
「俺はサザンのためにロックやってんじゃねえ!!!!」
そんな大ゲンカをやらかしたのも居酒屋兆治である。
「お父さんはねえ・・・伝説の人だったんだよ」
ワシは初めて会う息子さんにそう言った。
そんな田端さんももう他界していて、彼はお母さんと一緒に住んでいると言う。
「お母さんもねぇ・・・伝説の人なんだよ」
東三環路にある日本企業がたくさん入っている商業ビル「发展大厦」の向かいにあった居酒屋兆治は、開発の煽りで立ち退きとなったが、兆治は最後の最後まで立退かなかった。
ブルドーザーが来て店が強制撤去されるという時に、
彼のお母さんは屋根に登ってブルドーザーに向かってこう叫んだという・・・
「中国はそれでも法治国家か!!」と・・・
そんな伝説の両親の元で北京で生まれた育った彼は、
その後日本人学校の小中学校に通い、ワシは知らなかったのだが時々ワシの北京でのライブも見に来ていたらしい。
その後、外国人が中国語で勉強する国際学校の高校に進み、
高校一年生の頃グレ始めて学校を中退・・・
その頃に見たバンドがワシの知り合いでもある「窒息(ZhiXi)」
それからヘビーメタルの人生を歩むことになったのだと言う・・・!(◎_◎;)
田端さんの息子さんがヘビーメタルねぇ・・・
えも知れぬ感動が心を満たした。
「ロック」とは「精神論」だと思っている。
「ロック」な両親から生まれた彼が、本当に「ロック」という音楽をやっている・・・
グレた彼が「ロック」によって救われたのか、
はたまた死んだ父親に導かれるように本当に「ロック」を志すようになったのか・・・
家も近いということだから今後ともこの恩人の忘れ形見と共に北京のロック界を盛り上げようかのう・・・