ファンキー末吉メルマガバックナンバー

No.159 いい話3連発

先月末から田川ツアーを廻ってて、
東京に2日間だけしかいたけど家には半日しかおらず、
また中国に来てドラムクリニックツアーを廻り、
11日の二井原R&B大阪のためだけに日本に帰り、
関空からとんぼ返りしてまた中国でツアーを廻り、
戻ったら米川ほーじんセッションをやってすぐに和佐田是方の秘蔵っ子対決ツアーを廻る。
願ったりかなったりの旅から旅の生活なのだが、
その中でちょっとほろっとする昔話といくつか出会い、
ブログに上げたやつだけどここに配信します。
(ブログ読んでる人は読み飛ばして下さい)

こんないろんなことがあったからまた12月12日の爆風再結成ライブが楽しみです。

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第一話:ツアーの思い出:名古屋ELL
(2010年11月 2日)
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名古屋はELLというライブハウスでやらせて頂いて、
そこの名物オーナーしげさんと味仙でメシ食いながら昔話に花が咲いた。

名古屋ELLは昔は地下にあるそれはそれは小さなライブハウスだった。
名物オーナーのしげさんは当時植木屋として働きながら、
合間に手作りで店を仕上げてELLが出来上がった。

爆風がライブをやった時、
客がほとんどいないのに河合が客席にダイビングして椅子を壊し、
「俺が植木屋やりながら作った大事な椅子を壊すとは何事じゃ!!」
とさんざん説教されたのを覚えている。

また言っちゃ悪いがこのしげさん、人相が悪い。
奥さんのぞうさんがまたちょっとケバい系の美人なので、
ぱっと見はヤクザとそのスケと言った出で立ちである。

そんなのに本気で説教されたんだから河合がかなりびびってたのを覚えている。

もともとそんな無茶するバンドと知りながらブッキングしたのはしげさん本人である。
客も全然入らないのに好き好んで毎月毎月ライブをブッキングし、
ついでに全国のライブハウスに
「おもろいバンドがおるで」
と紹介して毎月毎月爆風スランプは大きくってすいません号でツアーをしてた。

デビュー前のアマチュアバンドである、客なんか入るわけがない。
多くても10人、少ない時はステージ上のメンバーより少ない。

それでも懲りずにブッキングしてくれて毎月毎月ツアーをしていた。

毎月毎月ライブやってるもんだから名古屋では
「爆風スランプは名古屋のアマチュアバンドだ」
と客はみんな思っていた。

いや、全国各地のライブハウスの客もそう思ってたのかも知れない。

そんな中、サンプラザ中野はMCでこう言った。
「僕たちやっとCBSソニーからデビューすることになりました!!」

その時の客の反応が面白かった。
全員が全員口を揃えて「うっそー」と言って笑うのである。

地元名古屋のアマチュアバンドだと思ってたおかしなバンドがデビューする・・・
そんな噂の相乗効果もあってか、いつの間にやら動員数は桁外れに増えた。

当時
「どこそこのヘビメタバンドがどこそこのライブハウスで動員記録を塗り替えた」
という時代である。
もともとそんなに客なんか入れない小さなライブハウスのELLであるが、
しげさんは
「じゃあ次は爆風2DAYSやろう!!」
という暴挙に出た。

ELLで2日間で600人・・・
これは物理的に塗り替えようがない爆風の持つELLの動員記録である。

当時のELLを知る者はみんな言う。
「あの店のどこにそんなに客が入れるんですか?・・・」

しげさんは無茶をやった。
立錐の余地もないほど客が入り、
外にも入り切らない客が並んでる状態でまず演奏を始め、
わーっと前に客が押し寄せて後ろに出来た隙間にまた客を入れる。

元々小さな地下室である。
天井も低いし酸素も少ない。
カウンターでタバコを吸おうとしたしげさんが
「ライターの火がつかんがねー」
と言ってた状態でこれだけ客を詰め込むとどうなるか・・・

後ろから押されて前の方の客が次々と失神してゆく・・・

いや、ステージ上で演奏しているワシら自体がもう酸欠で失神寸前なのである。
この上、後ろから押されている小さな身体の女子は体力のない順に倒れてゆく・・・

その失神した客をスタッフがステージから救い出して、
楽屋を通って外に出す。
そしたらまた前に詰まって後ろにちょっとだけ隙間が出来るのでそこにまた客を入れるのである。

当時ライブハウスで押されて死人が出たりしていた時代である。
この動員記録はその後物理的に破ることが出来ないようになった。

当時はライブハウス全盛の時代である。
爆風のようにライブハウスからメジャーシーンに躍り出たバンドが山ほどいた。

しかし時代は変わる・・・

メジャーになればブッキングは事務所管轄になり、
そこと関係が深いイベンター預かりとなる。
イベンターは「ライブハウスの次はホールだ」とばかりホール展開し、
「ライブハウスはアンダーグランド」というイメージが定着する。

ロックが「ビジネス」となってしまい、
「ライブハウスはホールに行くまでの足がかりだけ」
という図式になってしまったのだ。

これでは一生懸命ライブハウスのオーナーがバンドを育てたところで、
おいしいところは全部イベンターが持って行ってしまうということになる。

その後ビジュアル系のブームが来て、
店に出るバンドにいつものように説教していたしげさん、
「お前らそんなヘタクソでどうする?!!もっと練習せい!!」

あるバンドは深くその言葉に聞き入り、
「わかりました。僕ら今日解散します」
にはぶったまげたと言うが、
言うことをよく聞いたバンドは逆に動員数が減っていったりしたと言う。

当時ビジュアル系に若い女の子が売春して貢いでた事件が問題になったりもしたが、
そんなファン達が
「あのバンド、うまくなっちゃってもう私たちがいなくても大丈夫」
とばかりヘタクソなバンドの方に走っちゃうと言うのだ。

あの頃の時代・・・それはバンドは「上手い」ことだけが命だった・・・

俺もほーじんもそれに命をかけていた。
「この世界、ナメられたらおしまいじゃ!!」
そう思ってた。

三井はんや和佐田がいた「ITACHI」もそうだった。
対バンした時の態度がすこぶる悪かった。
「お前ら、爆風がなんぼのもんじゃ!!ワシらの方が数段上手いんじゃ!!」

対バンとは即ち「音で喧嘩!!」
勝敗は「上手いか下手か」である。
「俺は上手いから偉そうにしとる!!
ヘタクソは楽屋のすみっこで小さくなっとれ!!」
ってなもんである。

時代も変わり、しげさんも大人になり、
もう出演者に説教をすることもなくなった。

そのせいかどうかはわからんがELLはホールクラスの大きなライブハウスとなり、
動員数の少ないバンドも出演出来るよう小さなELLも作り、
しげさんも今では4件のELLのオーナーである。

いろんな伝説を作った昔のELLはもうない。

最後に出たのはX.Y.Z.→Aの最初のツアーである。
メタルがこんなしんどいもんだとは知らず、
関西四国8本連続のツアーを組んだ最終日がELLだった。

宣伝もしてないので動員数も少なかったが、
ツアーの最終日には噂が噂を呼び、
小さなELLが超満員になった。

当然ながら酸欠である。
薄れる意識の中であの遠い日のELLを思い出した。

おりしも同じ日、中野と河合は営業の仕事で同じく名古屋に来て、
アコギでランナーと旅人よをやって新幹線で帰って行ったが、
俺と和佐田はあいも変わらず車を運転して酸欠ライブをやっている・・・

生きている世界が違うのである。

ああ、そう言えば俺たちもあそこでいたこともあったなあ・・・
でも今はやっぱりここで生きている・・・

だから俺はあいも変わらずツアーを廻るのだ・・・

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第二話:ポール(梅原達也)
(2010年11月 3日)
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今回のツアーは44マグナムのポールこと梅原達也が、
何と京都と大阪の2本、遊びに来てくれてステージで一緒にセッションした。

彼がパーキーソン病にかかり、
それでも頑張って歌い続けていることは皆の知るところである。
(関連動画)

久しぶりに会った彼は少し元気そうでちょっとだけ安心した。

しかし現代医学を持っても完治は難しいという現代の奇病である。
薬とかでちょっと状態がいいだけで決して治っているわけではない。
このまま病気が進行すれば、歌うどころか動くことすら出来なくなるのだ。

京都では風邪気味だったのでお先に失礼したが、
大阪では最後までゆっくり一緒に飲んだ。

昔話に花が咲く・・・

関西メタルブームのまっただ中、
他のバンドより頭ひとつ抜きん出てそのブームを牽引してたのが44マグナムである。

爆風スランプの「たいやきやいた」という曲の前口上でいつも、
「アクションはおじんだ!!
ラウドネスは天狗だ!!
そして44マグナムはバカだ!!」
と叫んでいたが、
実は私は彼らとは面識がなかった。

何かの映像で彼らを見た時、
「ヤバいぞ、これは・・・こいつら・・・ハンパじゃない・・・」
と思ってマジでビビった。

折しも関西のメタルバンドが東京のライブハウスに乱入し、
東京のバンドと血みどろの喧嘩が起こっていた頃である。
こんなことをステージで言ってたらそのうち標的にされ、
俺はきっと奴らに殺されるんだ・・・と本気でビビった。

「よし!!何とか本人達と仲良くなろう!!」

末吉ならではの処世術である。
パール楽器を通してまずドラムのジョー、
そしてその近所に住んでいたジミーとバン、
最後にボーカルのポールにやっとたどり着いた。

九段会館でのコンサートの時、
「ステージを見に来てくれ」
と言って本人の前で「44マグナムはバカだー!!」を絶叫した。

マグナムが解散してからも時々飲んだりしてたし、
パーキーソン病を煩ってからもポールポジションで一緒にツアーを廻ったりしていたが、
今回ひょんなことからライナセロスの話が出た。

「ほーじん元気かなあ・・・」

バンドをやってるといろいろある。
ほーじんも爆風銃への書簡で言ってるように、
爆風だっていろいろあった。
ある時期ほーじんと私が憎み合わねばならなかったように、
ポールとほーじんもいろいろあったと聞くが、
なーに年をとるということは素晴らしいことである。

いやなことから忘れてゆくのだ・・・

私は迷わずすぐにほーじんに電話をかけた。
携帯も持たずに突然旅に出て連絡が取れなくなるスタッフ泣かせの男が、
この日だけは何故かワンコールで電話に出た。

二人がこうして電話で話すのも十数年ぶりであろう。
電話に割り込んで私はこう言った。

「今月18日の米川君とのセッション、
ポールも病状がよかったら来てもらおうや」

この日は江川ほーじん6DAYSの初日である。
私は次の日からまたツアーに出るが、
ポールの体調さえよければ6日間いつでも来て歌って帰ればいい。

自宅からの送り迎えが必要だが、
なーに、下戸のほーじんが喜んでやってくれるだろう。

電話を切って飲み会もお開きとなり、
ポールとも別れて和佐田とホテルに帰る道すがら、
私はこんな提案をした。

「なあ、週末とかなあ、
みんながヒマな時、店でポールの日やらんか?
もちろん病状が芳しくない時はドタキャンあり!
チャージ無料のおひねり制!!
ポールの送り迎えは俺がやるわ・・・」

それを聞いた和佐田、ちょっとだけ間をおいてこう言った。
「そやなあ・・・ワシらがあの店立ち上げたのはひょっとしてこのためやったんかも知れんなあ・・・」

この病気は現在のところ完治する見込みはない。
こうして今は酒が飲めてても明日はどうかわからない。
今日は歌が歌えてても明日歌えるという保証はないのだ。

麻痺でろれつが回らないポールと
シンバルで耳がやられて難聴の私が
酔っ払って会話してると実は大半が聞き取れてなかったりする。

しかしポールははっきりとこう言った。
「歌いたい」と・・・

よし、手始めには18日のほーじん米川セッションやな。
早起きして迎えに行くか・・・

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第三話:Sからの贈り物
(2010年11月 5日)
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昔いっしょにつるんでいたSから突然メールが来た。

「末吉さんご本人にどうしても連絡が取りたい事があり、
どこに連絡すれば良いのか分からなく、こちらにメールしました。
お手数ですが、ご覧になられましたら、
以下の連絡先を末吉さんにお伝えいただけますでしょうか」

おいおいそんなにかしこまらんでもこのメアドはワシ個人のやぞ!!
というわけで懐かしくなってその連絡先に電話をした。
なんと20年振りである。

「おうっ!!久しぶりやないかい!!何やってんねん!!」


Sは当時17歳、同じアミューズのタレント部門所属だった。

もともとワシに引き合わせたのはまだ売れない頃の福山雅治だったのだが、
当時ふたりともそれはそれは金がなく、
武蔵小山のJazz屋で合うといつもふたりに酒を奢ってやってた。
覚えてないがS本人曰く、「毎日奢ってもらってた」そうである(笑)

どちらも当然ながらイケメンなので、
それを肴に女の子を呼び出そうと、
「今から飲み来んか? イケメンも一緒やでぇ」
と電話をしても
「どうせ福山とかSとかでしょ」
と言って相手にしてもらえなかった、そんな時代である。

当時ぺーぺーで仕事も何もない福山と違って、
テレビ等にレギュラー出演していたSの方がまだ売れてたのだが、
そこは体育会のワシら、先輩の福山がいつもSの面倒を見てたのを覚えている。

福山もあんな甘いルックスのくせに非常に男気のある奴で、
ワシも個人的には大好きだったのだが、
ちょっと「不良」が入ってたSのことは「ほっとけない」というか、
結局うちに泊めたり連れて飲み歩いたりしていた。

ひどい時は
「おい、今から金沢のおもろい友人がおるから訪ねて行くぞ!!」
若い衆集めて当時のマイカー「ダットラ」とオンロードのバイク
(当時はオンロード、オフロード、アメリカン、サイドカーと4台のバイクを所有してた)
と並走して関越自動車道をぶっとばした。

要は自分がバイクに乗りたいというだけで、
でも疲れたら車にも乗りたいので、
バイクの免許を持っているSが便利だったのである。

金沢でしこたま飲んで、
「ほなワシは飛行機で帰るわ、お前バイク乗って帰っといて!!」

Sは彼の身体よりひと回り小さいワシのツナギを着せられて、
窮屈でアザが出来る思いをしながら徹夜でバイクを転がして、
東京でいち早く飲んでいるワシのとこに届けてこう言った。

「末吉さん・・・かんべんして下さいよ・・・」

かんべんするどころかワシの傍若無人は止まらない。
2丁目のオカマバーにハマってた頃は、
「おいお前、あの人達はなあ、俺たちなんかより凄い人達なんじゃ。
人間を越えとるんじゃ!!お前も勉強しに来い!!」
とか何とか言って連れてゆき、
お化け屋敷のようなオカマ達に囲まれながらSが本気で
「末吉さん・・・かんべんして下さいよ・・・」
と言ってたのを覚えている。

同じように福山もオカマバーの洗礼をと連れて行ったが、
本当に「かんべんして下さいよ」と言って二度と寄り付かなかったのと違い、
何故かSは何度も何度も「かんべんして下さいよ」と言いながら、
結局はいつもいつも一緒にいたんだから大したものだ。


そんな中、
「軽井沢に友達がペンションやっとるからツーリングに行くぞ!!」
とまたSを呼び出し、
みんなで山道を攻めて走ってた時、
カーブを曲がり切れず、Sがトラックと正面衝突した。

現場に駆けつけて救急車を呼んで、
病院に運んだのを覚えている。

幸い骨折と全身打撲ぐらいで大事には至らなかったが、
それ以来なんとなく疎遠になってもう20年・・・
とりあえず翌日会う約束をして電話を切った。


ほどなくメールが来た。

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末吉さん、電話有難うございました!!!

20年、本当にあっというまでした。
どうしても悔やまれていた、バイク代、
富士銀行時代の通帳等と共にやっと、明日、お渡しできます!!!
飲み代、ぷらっとこだまに乗り遅れた交通費の足しにして下さいませ(*^_^*)

バイクで事故をした後、意識を取り戻し目を開けると、病室で末吉さんが、
「おまえはあほやの~。」と笑って言ってました。

武蔵小山マンションのウォーターベッドで寝ていると、
「そこは俺の寝床じゃ!どけ~!」と怒って起こされました。

音楽したいんです!って相談したら、
「ぼちぼちいこか」をきけ~!っと、関西ラグタイムのアルバムは、
今、お借りしたまま私の自宅にあります。

時代と共に変わっていかなきゃいけないものだらけの20年でした。

末吉さんは、
時代には関係なく変わっちゃいけないものを20年保ち続けた男前な先輩でした。

成功しようがしまいが、男前な生き方を示した先輩と、
若き日に時間を共有できた事は、私にとってかけがいのない宝物です。

末吉さんの20年は、過去のメルマガを全部通読させて頂きました。
その文脈の奥に、文章にならない数々の想いが伝わって、涙がたくさんこぼれました。
この方は、本物やと。。

末吉さんの熱い人生(音楽)との取り組みを私も誇りにして、
自分の人生(仕事)に精進しております。

これから先は、受けた恩を少しでもお返しします!
どこまでできるかわかりませんが、
日本にいらっしゃるオフの日は、大江戸温泉にご一緒させて下さい。
(大江戸温泉代くらいは!稼ぎます!!!)

末吉さんがへたって日本に帰ってきて入院して、意識を取り戻したら、
「あほですね~、養生せんからですよ~!養生してくださいっ!」
と、病室で笑って話しかけたいです。

明日、お会いできるのを楽しみに!

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何故か涙が出て来て止まらなかった。

あの頃俺はなんであんなに狂ったように遊んでたんだろう・・・
まるで芸能人というクソっ食らえな職業で稼いだ金が憎いのかというぐらい、
毎日毎日湯水のように金を使い、
何千万あった預金は1年でゼロになり、
税金が払えなくなってアミューズに借りに行ったらこう言われた。

「そりゃお前から取りっぱぐれる心配はないから貸すことに問題はない。
でもこれは友人として忠告する、その生活を改めよ!!」

ワシもその数年後にはアミューズをやめることとなるが、
Sはこの頃にはもうアミューズをやめている。

大組織の中でうまくやってゆけず、
完全に浮いてしまっているこんな人間とつるんでたから感化されてやめてしまったのか、
もしくは同じような人間だからつるみだしたのか、
それは今となってはわからない。

テレビにもよく出ていたSはその後職探しにも苦労したようだ。
どこに行っても「芸能人」というのはついてまわるのだ。

このワシがどこに行っても爆風スランプがついてまわるのと同じように・・・

芸歴を隠して就職し、
今では裸一貫で会社を起こして頑張っているという。

20万という金は、返せそうな額で実はやりくりするのが大変な額である。

「それをぽんと返せるということは
ちゃんとまっとうに生活出来るようになったということなんだな!!」

ワシはありがたくその金をちょうだいした。

「今日は僕が奢ります」と言うSを制止してワシは言った。
「アホか、もし俺がおちぶれてお前が大金持ちになったとしても、
永久に俺はお前の先輩や、後輩に奢られてたまるかい!!
お前はまたお前の後輩に奢ったったらええねん!!」

昔ほど豪遊する金はないが、
Sと20年振りに朝まで飲んでそのまま羽田から北京に飛んだ。

金の問題ではない。
あいつはもっと素晴らしい利子をいっぱいつけて俺に返してくれたのだ。

同じ爆風のメンバーが同じように儲けた金でいい車を買ったり別荘を買ったり、
結局俺だけが家も売って金もなく・・・

でも俺にはこんな素晴らしいものがあったんじゃないか・・・

ありがとな!!S!!
昔ほどはアホ出来んけどまた飲もうな!!